夜話 1338 柿右衞門逝く その三(柿右衞門八女に) | 善知鳥吉左の八女夜話

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夜話 1338  柿右衞門逝く その三 (柿右衞門八女に)

 

約三十年前の昭和五十七年のこと 「八女を記録する会」は「坂本繁二郎生誕百年記念展」を催した 

会場は八女市町村会館 (現オリナス八女)

 

初日の十月十五日早々に柿右衞門が見学のため来場した 

早速賛同の署名を願った 『青木繁歌碑』の建立の署名だった 坂本は青木繁のために久留米ケシケシ山に歌碑を建てた

その歌は八女の実家に身を寄せていた母に捧げる歌だつた 会場に坂本の筆跡の歌稿を展示し 八女に「青木の歌碑」の建碑を呼びかけ賛同者に署名をねがっていた

柿右衞門は直ちに応じて署名してくれた 『酒井田正』と 

まだそのときは十四代襲名前だったので本名での署名だった 

其のとき初めて柿右衞門とお会いしたことになる 

老生のことを父君十三代から聞いておられたらしい 

また八女市広報の拙文『円西と陶工柿右衞門』をすでに読んでおられたらしく次回の八女訪問の案内を老生に指名された 

同月二十二日に再度八女にくるとのこと しかし既に到着している酒井田氏をこのままお帰しするわけにはいかぬ 

坂本展の会場は同志にまかせ 酒井田氏の運転する車で酒井田氏一族の故地をあわただしく 案内した 

陶磁研究家の永竹氏も一緒だった 
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酒井田館跡地では野草をスケッチした(右)

そして再会した二十二日は勉強したいという市職員も同道のうえ朝から酒井田方面を案内した 

昭和三十年に十三代案内のとき説明した酒井田館跡の礎石は既になくなっていた 

正氏は酒井田家の氏神長田丸宮天満宮(下)に丁重に拝礼し社内の状態をノ―トに記録した


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もともと中世のころ この辺りは「境田」と云っていた 

当八女地方の統治者上妻氏の統領の弟久家が境田に館をかまえたころ地名は酒井田となり 久家はそれを氏名としたのである 室町時代後期のころである 

此の地に今も熊野神社がある 創建時の棟札には酒井田久家の名が残っている 

酒井田一族のもと菩提寺跡にも案内した 

市立三河小学校の西部にある 
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もと浄土宗光明寺がそれだった 三間四方ぐらいの小寺で無住の寺になっていた 正面に阿弥陀仏が安置されていた

もともとこの寺の開基は行基で 天平年間開基の天台宗の言い伝えのある古寺だった 

のち 健保年間浄土宗に改宗し 酒井田一族の菩提寺になつた 

境内に「行基菩薩』の碑があった 

寺の背後には 酒井田一族縁故の樋口一族の墓が多くあった 

それらに正氏は丁寧に合掌をささげげた その姿には既に十四代の風格が滲んでいた (上)

天正十年(三年ともいう)大友氏の配下にあった酒井田一族は 肥後との国境の邉春地区での肥前竜造寺軍と戦い敗北し次男のみが残った

このいきさつを説明したとき正氏はその方向に向かって しばし黙とうした 

掲げた写真は酒井田一族を弔ったそのときのものである 

此の八女訪問の直後 正氏は「柿右衞門」十四代を襲名した 

なお この光明寺は後年 福島城改築のおり移転した 

現八女市古松町 無量寿院光明寺がそれである 

(敬称略)