夜話 1331 山本健吉と游俠の詩人 | 善知鳥吉左の八女夜話

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夜話 1331 山本健吉と游俠の詩人 


山本健吉を偲ぶ評論家たちの座談で 健吉の最後の評論が『百瀬博教(ももせひろみち)という詩人』であることを知り それが登載されている『新潮千号記念号』に眼を通した 

久留米図書館を通じて県立図書館から拝借したもの 

はじめ関係ページのコピーを願ったところ『新潮千号記念号』そのものを貸してくれた 

健吉の評論は六ページだった

健吉夫人や息女の随筆を読むと健吉には終生の宿題として『西行論』があったという 

『百瀬論』のほかに書きかけの未発表の『西行論』があるかもと思って遺族に尋ねたが それはなかったとのこと

『百瀬博教という詩人』がやはり最後の評論だった 

この評論で取り上げられた『絹半纏』で一躍 百瀬は仁侠世界の詩人として知られるようになった 『新潮千号記念号』で健吉は百瀬を知ったいきさつをこう書いている

『百瀬博教という名を知ったのは 私あてに著者百瀬氏の署名のある詩集『絹半纏』が送られてきたからであった 見ると序にかえて『百瀬さんのこと」という一文を高橋睦郎氏が書いているのでその高橋氏との縁で百瀬氏も私にも贈ろうという気になつたなったのだなと推量できた (略)高橋氏の一文によって百瀬氏の人物に興味をいだき ことに高橋氏(略)が

百瀬氏を『史記』游侠傳中の人の行実に擬していることを面白く思った」と述べ つづけて「私は『絹半纏』を読みながら しばしばヴィヨンの名を思い出した 百瀬氏こそ今日の日本でただ一人のブィヨンの流ではないか」と論じている
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健吉は「游俠とは 日本では やくざ ごろつきだ」とも付け加えている 

肝心の『絹半纏』に眼を通さずに百瀬と健吉をここで論じるわけにはゆかぬ 

ただ晩年の健吉は 熊野の いかつい作家中上健次との交流があったし 八代亜紀の演歌「舟唄」をしばしば口にしたとか また さだまさしの「防人の詩」をご詠歌と言って好んで唄ったとか 

そんないわば日本詩歌文学の底辺に眼を注いでいたようだ 

古今・芭蕉などを鋭く説いた健吉の眼の果てに この「やくざの詩」があったことにおどろき そして うなづている 

なにかの雑誌で「わびのしるしに 若衆が つめた指を ばくりと喰らった百瀬の所行」を読んだ記憶がある 

健吉亡きあとも 礼を尽くす百瀬のことは健吉の遺族からしばしば聞いた 

生前 評論家山本健吉にまとわりついた詩人・俳人の名は健吉没後 引き潮のように遺族の前から姿を消したことも見聞きした 

惜しいかなこの游俠の詩人百瀬博教も今は亡い 

しかし背徳の詩人フランソア・ブイヨンに擬せられた名誉は残る

彼は「不良少年」を題材にしたもの数冊も残している 

 

健吉を偲んで 百瀬の游俠の世界に触れてみるつもり 長谷川伸の世界に通じることを予想して 

「さだまさし」のご詠歌『防人の詩』をささげながら

(敬称略)