某新聞の佐賀支局からの「爆弾三勇士」についての取材が昨年から続いている
久留米の工兵隊が小倉にあったころ亡父はその隊から日露戦争に出兵
後輩の「三勇士」は亡父の自慢ばなしの一つ
だつた 少年期「三勇士」であけくれた拙老は三勇士フアンである
戦前毎日のように「廟行鎮の敵の陣」を歌ったもの
この『肉弾三勇士』の歌は与謝野鉄幹の作詞 複数の公募した側により『爆弾』とも『肉弾』とも言った
この夜話で数回三勇士をとりあげ 多くの人から新知識を得た 久留米の工兵隊の物語り
なにしろ恩師坂本繁二郎も唯一つの戦争画として「肉弾三勇士」を描いている
取材が佐賀支局とあっては山頭火と三勇士の関係に思いが走った
ずいぶんむかしのこと『定本山頭火全集』で山頭火と三勇士との縁を知った記憶がある
八女図書館には『定本山頭火全集』がある
早速閲覧に出かけた
ニ階の書庫から七全巻をおろしてもらって検索
昭和七年に山頭火は佐賀県のあちこちを行乞している
三勇士戦死は同年二月廿ニ日 山頭火と三勇士との縁はそれ以後のはず
たちまち『行乞記』の三月四日の日記に「三勇士」が出てきた
山頭火は佐賀市の中心部を行乞したとき 収入が良かったので映画を見ている
映画は二本立て 無声映画
山頭火は「爆弾三勇士」を見て「涙が出た」と書き「戦争ー死―自然、私は戦争の原因よりも先ずその悲惨にうたれる」と続けている 国よりも兵士の目線
拙老は此の映画鑑賞のことではなく「作江伍長」との接点があったと記憶している
なお全集をくっていたら やはり「作江伍長」がでてきた
「当地は爆弾三勇士の一人、作江伍長の出生地である 昨日本葬がはなばなしく執行されたという」ただそれだけだった
ところが翌日の四月一日に再度作江伍長がつぎのように出てくる
「美しすぎるーと思うほど今日の平戸付近はうららかでほがらかでよかった (略) 平戸町内ではあるが一里ばかり離れて田助浦というもっともうつくしい短汀曲浦がある そこに作江伍長の生家があった 「人に余り知られないように回向」して
「弔旗へんぽんとしてうららか」
うららかな春の空にへんぽんと翻るのは弔旗ということ
山頭火は意味ありげな句を詠んでいる
三勇士についての山頭火の記録は他にない
冒頭の映画は三勇士が戦死して十日たらずしての製作封切りである そのころ日活その他の四映画製作所が競争して製作したらしい
一番早く三月三日に封切ったのは新興キネマ 山頭火が見たのはこれらしい
この無声映画には連隊長役として荒木忍が出ている
この役者は戦後にも活躍した個性派の俳優だった
無声映画とはいえ事件後十日で佐賀と云う地方都市で映画が上映されたというのは 「三勇士」が如何に戦争協力に緊急に利用されていたかが推察できる
山頭火の「弔旗」の句には彼らしい虚無的な想いが込められているとみた (敬称略)
上 山頭火 下 作江伍長