夜話 461 広島から長崎へ | 善知鳥吉左の八女夜話

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福岡県八女にまつわる歴史、人物伝などを書いていきます。

夜話 461  広島から長崎へ


前夜話で広島第一陸軍病院大田分院から郷里福岡に帰郷したことを記録した。

博多から八女の親類の家にまず帰着した。

善知鳥の養母と妹は満洲四平街に。

たよって帰るあては兄・姉、妹・弟ら六人がいる長崎の実家。

しかし長崎も原爆に見舞われている。くわしい長崎の情報はない。

先ず八女の親類を頼った。その親類の長男夫婦も満洲で終戦を迎えていた。善知鳥の養父母は此の長男夫婦を可愛がっていた。長男の父母は頼ってきた善知鳥をわが子のように迎えいれてくれた。

8月25日長崎の実家の全員の無事が確認できたので長崎に帰った。

長崎駅周辺は壊滅していた。

実家のある紺屋町は被害から免れていた。長崎市街を半ば割るように諏訪神社のある丘陵がのび、南地区は被害がすくなかったというのだ。


実家のの六人は偶然にも九日は全員勤労奉仕などに出ず、直接被爆していなかった。

落ち着いた善知鳥は映画館の看板描きに就職した。

九月はじめ、亡き実父の弟子だったA新聞社のTさんが、原爆跡地の撮影のため実家を訪ねてきた。実父は写真製版の職人だった。

Tさんは三脚などの重機器具の運び役を善知鳥に頼んだ。

その日一日善知鳥は長崎の爆心地一帯を撮影取材するTさんにつきあった。

爆心地すぐそばの浦上天主堂の瓦れきの中に顔だけになつた天使の石像などがが数個ゴロゴロと転がっていた。<あの天主堂をそのまま残す智恵が長崎市民にはなかったのか。>爆心地をしめすものとして。全世界にこれほど原爆の悲惨さをアピールするものはなかつたのに。

野焼きの煙が転々と遠くに見えた。

長崎医大の惨状もすさまじかった。

廊下のゴザに寝る被爆患者もTさんは写した。

器具運びの一日は身体と心に こたえた。

しかしその経験は今、代えがたいものとして心に残る。

そのごTさんは善知鳥にA新聞の写真製版の下書きへの就職を薦めた。

しかし満洲の養母と妹のことを理由に断った。

あのとき薦めに従っていたら、あの大作家Мと机を並べて、写真製版の下絵を描いていたかも。

その時のTさんの写真は占領軍の禁止令のため発表できなかったそうな。

いまだに見ていない。

広島、長崎の被爆の影響は善知鳥には いまのところない。

健康を維持している。

青白い中学生だったことを知る友人は、「原爆でお前の身体に巣くっていた結核菌はかいめつしたのさ」とからかう。

からかった友人はすでに逝った。

アメリカが詫びるまで善知鳥は貴殿に会うわけにはゆかぬのだ。

許せよ閻魔さん。