夜話 460 広島第一陸軍病院大田分院 (二)
八月長崎に「特殊爆弾」が落とされたおとされた翌日の8月10日になると女子学生の看護は益々見事になってきた。交代でくる子もいたが ほとんどは連日勤務のように見えた。
貧しいモンペ姿とは言えその甲斐甲斐しい看護ぶりには驚いた。初めて大田分院に婦人会員とともに現れたとき 悲鳴を上げて目をそらした彼女らの鉢巻の下の瞳にはもうオソレは無かった。
被爆兵の耳の中の蛆を素早くとるのも我ら独歩患者以上にうまくなっ。
「大丈夫ですよ」とつぶやきながらの看護ぶりは我ら男性の「がんばれ」と怒鳴る以上のいたわりがあった。
またただぼろぼろに焼き付いた下着を処分するとき 婦人会のおばさんから「兵隊さんは廊下に出てください」と叱られた。女学生へのいたわりに気づかない男性兵へのどなりだった。
茶碗の中に集められた蛆をまとめてつぶす作業を婦人会
おばさんは当方らに命じた。教室に残されてあった受験雑誌に挟んで数匹ずつ押しつぶした。
被爆兵の多くが半身または全身が赤黒く膨れ上がり 住所・氏名・所属部隊すら言えず焼けただれた被爆兵の ほとんどは顔が焼け爛れ目をやられていた まさに襤褸の集団に化していた。
神経系統がやられ思考力を失いただ息をしているという患者たちに寄りそうようにして女学生は看護した。看護婦という存在の貴重さを改めて知ったことを恥じた。
やっと 聞き取れた出身地は中国地方が多かった。
衛生兵は電話でそれらの留守宅に連絡していた。
最寄りの役場などを通じて連絡していた様だったが それも危篤の兵のみだつた。
届いたのは数件だつたようだ。13日ごろまでにはには十数人の家族が分院に到着したようだった.
ひとりのもんぺ姿の母親は、まず看護していた善知鳥らに礼を言った。
包帯代用のボロ布に包まれた息子の顔や手を撫でながら名を呼び続けた。
被爆将校は予備学生たちではなかったろうか。
彼らの多くは声を失っていたが、話せる患者は声しぼって、「鬼畜米英への復讐」を頼んだ。
そして自分は真剣に「やるぞ」と復讐を誓った。
階級を超えた男と男の誓いだつた。
「天皇陛下万歳」などといって息を引き取ったものは皆無だった。
薬品なども用意されていなかった。「がんばれ」という声とヨードチンキ?だけの手当。
はじめ、悲鳴をあげていた女学生たちは代理看護婦としての使命感に満ちて看護活動に務めた。
モンペには被爆兵の血がにじんでもいた。消毒液もない手にも。
死体を水で拭き上げる作業までもした。
衛生下士官が「そのへんでやめろ」と云った時「湯灌です」と下士官を睨みつけた女学生もいた。
善知鳥は数年のち、満洲から引き揚げて十八の妹の死で「湯灌」を知った。
そして15日午前、「正午に天皇陛下の激励のお言葉がラジオ放送される。よく聞け」と下士官から指示があった。
正午、 二階の病室正面におかれた小さなラジオで天皇のことばを聞いた。
放送がよく聞こえなかつたといわれるが、自分にはよく聞き取れた。「戦いに負けた。戦争は終結」という内容はすぐに分かった。
周りの兵たちは泣いた。二等兵の自分にはここで初めて満洲に残る養母と妹へ思いが痛切に胸にこたえた。
「神様の言葉はあんなに調子はずれの口調なのか」。天皇は神と言われていたころ。それが不思議だった。八月十九日 「お前ら 故郷に帰れと」と手作りの下駄二足と生米一升が与えられた。しかし顔なじみになっていた女学生には得なかった。彼女らには除隊は無かった。戦後 彼女らがつづった「九十九の白木の棺」を大田市立図書館で発見した。
いま被爆死した戦友に誓った「復讐」を「非核運動」と思い老骨に身を打ち乍らがんばっている。
その年三月満洲で死亡した養父は一年前関東軍が南方移動したことを知った時敗戦を覚悟していた。夏休みに帰省した善知鳥に「そろそろ引揚げるかな」とつぶやいた。そのとき養父は病んでいたらしい。
休日に菊坂の下宿二階の東大生を訪ねてくる予備学生たちは「サイパンを中継して国土は爆撃されそして日本は負ける」とよく言った。
東京の2月27日の空襲を体験していた善知鳥は「日本は負ける」と思っていたが神様の天皇が直接敗戦を語るとは思いもしなかった。
天皇の敗戦の言葉を聞いたとき、「空襲はもうない。
今夜から電灯のしたで本が読める」と私物箱からとりだした岩波新書の『万葉秀歌上下二冊』の表紙をなでた。
「灯火管制」はその夜から解除されたが二十坪の部屋の天井にぶら下がった一個の電球では寝ている善知鳥たちのところまで灯りは届かなかった。
まわりの兵たちは、「これからどうなる。」とおそくまで話し合っていた。
酔った軍医たちの声が下から聞こえてきた。「あいつら消毒用のアルコールを、茶でうすめて飲んでやがる」と古兵がわめいた。
敗戦即軍組織解体ではなかった。
翌日も善知鳥らは最下級の二等兵だった。
古兵のふんどし洗いの日課は続いた。
そして患者は確実に死んだ。分院玄関に死体を入れた棺桶が並んだ。
善知鳥らも火葬場まで死体を運ぶ院外作業を命じられた。
大八車で棺桶を火葬場まで運んだ。緑の病衣のすそをまくって。下駄ばきのまま。
火葬場には順番待ちの棺桶がならんでいた。炎天下腐臭は激しかった。野焼きするにも薪も不足していた。
のち聞いたところ、やっと棺桶が百個用意されたそうな。しかし不足していた。善知鳥の記憶では死体に古蓆をかぶせら戸板などで運ばれていった死体が多かった。それらの兵は名も聞き取れなかった。
翌17日朝、突然「戦争は終わった。おまえら独歩患者は家に帰れ」と命じられた。
被爆兵患者に別れをつげ 生米二升と手づくりの下駄が退職手当だった。
六十年前の同人雑誌『野火』から、知人が抜き書きして届けてくれた広島第一陸軍病院大田分院の昭和20年8月15 日の下手な心象録である。
かなかなの鳴き止みしとき傷口の更にいたむと兵は云うなり。
いきどおり捨つるすべもなくその夕べ吾は二人の兵を焼きたり。
石をけり石をけれどもその夕べ戦いはすでに今日終わりたり。