安倍政権による「道徳の教科化」はここがダメ! 前川氏、安倍首相の「お膝元」で教育改革を批判

 子どもたちの道徳を評価するなんて、神をも畏れぬふるまいです。
 騒ぎすぎと思っている人もいるでしょうが、1966年に中央教育審議会が「期待される人間像」という答申を出した時は、もっと議論が起きたのではないでしょうか。それが起きなかったことがこわいのです。言論統制の力だけではない気がします。

 教師ごときに(というかあらゆる他人に)自分の道徳性を評価されたくありません(窃盗教員二人と働いてきたことはブログに書きました)。
 先生自身は自分の道徳を評価されても平気でいられるのでしょうか? こう考えただけで「ちょっと待てよ」という話になります。

 今まで習った学校の先生を思い出してみてください。
「キミは道徳的に優れている! 」なんて言われたい人がいましたか? 
 そんな大事なことを独断する人がまず不道徳でしょう。教師をしてはいけません。

 この子はこういういいところがあると見出すのが教師の仕事であり喜びですが、それは道徳の評価とは違います。

 これをしてはいけないと伝えるのと、「不道徳だ」と怒るのは、別次元のことです。
 
 現場の教員は毎年変わる方針の中で忙殺されています。「あたらしい」道徳の評価にどう対応するでしょうか。すでに道徳の評価文例はたくさん示されています。ほとんどの教員はそれを参考にすると思われます。
 指導書というあんちょこ通りに授業をする教員もたくさん出てくるでしょう。
 だからこそ、簡単に誰かの示した一方向に導くことが簡単なのです。危険です。

 別の側面を考えてみましょう。
 先生があらかじめ正解を持っていてそれを当てるのが勉強だと思っている子どもが大勢います。

 多くの学校では「犠牲」はよいこと、「主張」は悪いことになっています。先生の希望に沿った「青少年の主張」が喜ばれるのが実情です。

 約束ごとを破るのは常に最悪とされます。それができないこともあります。やり直しはできます。それを「徹底的に」というのは逃げ場が用意されていないということです。そこは人間の生きられる場所ではないでしょう。

 先生に褒めてもらおうとしてこの先生にはこういう発言をしておけばよい、とうわべで使い分ける子どもがいても不思議はありません。
 自分の損得を考えることもあります。先生に喜んでもらおうとして実行することもあります。(時にはこれも不適切な場合があることを覚えておかなければなりませんが、教員にとっては難しいことです)。

また、注目を引くためにわざと「悪い子」になる子も出てきて収拾がつかなくなることも学級崩壊の事例で知られています。
 最終的には「ほっといてください、どうせ無力なんですから」と絶望する子どもも出てきます(アドラー心理学に基づいていますので、親子関係でも同様です)。

 本当に恐ろしいことです。

 他人の評価に基準を置くことが処世術になり、大局に立つことができず、共同体を悪い方向に導いている一例が日本の財務官僚かもしれません。

 さらに今さら自分が声をあげても、大きな圧力を変えることができるわけがないと諦める多くの人たちがいます。考えることを放棄してしまう人もいます。

 学校の先生も校長先生に評価されるために生徒を道具として利用することもあります。ここで、学校が経営のために生徒を利用する例をあげたくなりますが、元に戻ります。

 戦争中、満蒙開拓少年義勇団に応募するよう呼びかけたのは学校の先生たちです。先生にもノルマがありました。良かれと思って真面目な先生ほど一生懸命説得したという例もあります。

 親は自分の子どもにピンポイントで大きい影響を与えられますが、学校教育は薄くても日本中をカバーできます。ある意味ではとても能率的なのです。児童生徒は寝食の時間を除けば、生活の大半を学校で過ごしています。

 お互いを人間として尊敬し、それぞれの人に与えられた別々の賜わり物を生かして、共同体をよくすることを志向したアルフレッド・アドラーに学びたいと考えています。生徒も先生も学校外の人もみんなでそうありたいです。

 前川さん(「面従腹背」が座右の銘と言ったのは、皮肉にしても悲しい気がします)には「あなたがトップにいる時から道徳の教科化は動いていましたよね」と言いたい気もしますが、外に出たからこそ伝えられることがあるとも考えて励みにします。

 今をよくするため、未来をよくするため、一人ひとりできることがあります。

 中学受験のヒントとしては、受験生に配慮はあっても、こびへつらわない学校がよいと思います。本当の意味のけじめがない学校ですから、選ばない方がよいです。

追記
 「教員は多忙」と書いたら、それは能力が低いからで、どんなことも子どもに関われることは全て喜びなのだから理由にならないと指摘されました。
 個人の努力には限界があるから、労働環境も合わせて見直そうというのが私の意見です。
 提供する教育の品質保証をするためにも。
 同じ体制で「どんなことでも顧客が求めることであれば何でもやります」なら、確実に一つ一つの質が落ちるでしょう。