越前・三峰城、標高404㍍。
鯖江市上戸口の、三峰城のふもと・登山口あたりで、地元の方に頂までの道の様子を訊ねた。
「狭い山道だが舗装してあるでな。対向車来ると厳しいが、まぁ来ないわな」
「30分ほどで、大銀杏の立つ駐車場に着いて、そこから山道をまぁ30分くらい登ると本丸頂上だが、山中猿がいるらしいから…」
「いちおう熊よけ鈴持ってきましたが」
「そんならいいか…」
ブログを互いにフォロー中の方の三峰城の記事をかつて読み、本郭・頂に脇屋義助の碑が立つことを初めて知り、三峰城へ行こうと決意。
だが、失礼ながらどなたのブログを読んだのか、かなり時間かけて探したのだがついに分からず。まったく申し訳ありません、すみません。
もし心当たりの方、いらっしゃいましたらぜひ教えてください。
脇屋義助とは、あの新田義貞の弟にて猛将と伝えられる。
左が義貞、右・義助。
群馬県JR太田駅前に兄弟像が並び立つ。
兜を手にする義助の表情がなんとなくあどけなくかわいい。
南北朝時代、都から後退した義貞と義助は、新たな南朝方の拠点を越前に築こうと転戦していた。
1337年、義助は兄の命により若狭方面、また越前北方、加賀方面の動向がつかみやすい三峰城の城将を任された。
「脇屋右衛門佐義助朝臣、五百余騎ヲ相副テ、三峯ノ陣ヘ指遣サル(太平記)」
前置きが長くなってしまった。
「断然行くぞ! 怖くなったらすぐ引き返すぞ、行くぞ‼」
鼻息荒かったが、ところが、ところがである。
舗装されているとはいえ、蛇行する山道、右側は下への崖、左は上への崖。
道は砂利落石土、濡れ落ち葉、枝木、完全一本道、クルマ降りてじゃまな枝を折り…。
カーブで前方がわからない、クラクションをやたら鳴らす。写真はこれ1枚。
カーブミラーなし、また木漏れ日の日差し強く前方がよく見えない…。
「うーん、引き返すか、どうしよう」
しかしなかなかUターンできるような場所なし。
前へ進むしかない。
背中に汗びっしょりの頃、着いたぁ!
ここだ、ここだ!
そして、行くぞ歩くぞ、熊除け鈴、頼むぞ!
鈴を鳴らしながら黙々と歩く。
たいしたことない、残り730だ。
ここは土橋のような道。両側崖か。
黙々歩くはやめて、
♬~線路は続くよ どこまでも… ♪~おらあ銀座で ベコ飼うだぁ~ ♪
平坦、平たん、ちょろい、ちょろい、ところがギョ! 前方から!
動くものが! よかった、人だ。
「一乗谷の方から登って来たんですよ」
「クルマで! そこまで? 来れるんですか!」
「本丸もうすぐです、たいしたことないですよ」とニヤニヤ、というかニコニコというか。
「みんなすぐっていうですよ、いつも会う人にそういわれて私は泣いてきた」
「ほんとすぐ、ちょっと坂ありますが…」これだ!「……」しかししばらくいくと!
大手口だぁ!
虎口だ、やったぁ!涙目。しかしここからが。
腰が、膝が!
もう少しだ!
見、見えた! 石碑に「脇屋」の字が!
着いた! ばんざいだ! やった!
あぁ、久々のこの達成感!
高すぎて山びこがないのが残念。
「脇屋義助卿守戦之地」
脇屋義助のことはほとんど知らなかった。
新田義貞の鎌倉への出陣から、鎌倉、箱根、都、越前などの史跡をたどるなかで、兄に従い常に傍らにあって兄に尽くしたというその存在を知った。
「足利尊氏に弟・直義、楠木正成に正季、そして新田義貞に義助あり」
脇屋義助のことをよく知らない中で、太田駅前で義助像を見たときは、なんか嬉しかった。
尊氏像、正成像、義貞像が数多ある中で、「弟像は義助だけか、そして三峰城の碑も」
なんかそんな気持ちがこの山頂に私をいざなったような。
おお、一乗谷城が眼下遠くに。
そして、それよりも、おおっ!あれは日本海か、ハハハ、海が、海も見えた!
かくして三峰城、ご満悦にて下城いたし候。
義助さん、ありがとね。にいちゃんも。
義貞・義助兄弟主役の大河ドラマ、いつの日かあるといいな。
因みに福井市の藤島神社は、兄とともに脇屋義助もまた祭神という。