●越前 三峰城 脇屋義助 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

越前・三峰城、標高404㍍。

鯖江市上戸口の、三峰城のふもと・登山口あたりで、地元の方に頂までの道の様子を訊ねた。

「狭い山道だが舗装してあるでな。対向車来ると厳しいが、まぁ来ないわな」

「30分ほどで、大銀杏の立つ駐車場に着いて、そこから山道をまぁ30分くらい登ると本丸頂上だが、山中猿がいるらしいから…」

「いちおう熊よけ鈴持ってきましたが」

「そんならいいか…」

 

ブログを互いにフォロー中の方の三峰城の記事をかつて読み、本郭・頂に脇屋義助の碑が立つことを初めて知り、三峰城へ行こうと決意

だが、失礼ながらどなたのブログを読んだのか、かなり時間かけて探したのだがついに分からず。まったく申し訳ありません、すみません。

もし心当たりの方、いらっしゃいましたらぜひ教えてください。

 

脇屋義助とは、あの新田義貞の弟にて猛将と伝えられる。

左が義貞、右・義助。

群馬県JR太田駅前に兄弟像が並び立つ。

 

兜を手にする義助の表情がなんとなくあどけなくかわいい。

南北朝時代、都から後退した義貞と義助は、新たな南朝方の拠点を越前に築こうと転戦していた。

1337年、義助は兄の命により若狭方面、また越前北方、加賀方面の動向がつかみやすい三峰城の城将を任された。

「脇屋右衛門佐義助朝臣、五百余騎ヲ相副テ、三峯ノ陣ヘ指遣サル(太平記)

 

前置きが長くなってしまった。

断然行くぞ! 怖くなったらすぐ引き返すぞ、行くぞ‼」

鼻息荒かったが、ところが、ところがである。

舗装されているとはいえ、蛇行する山道、右側は下への崖、左は上への崖

道は砂利落石土、濡れ落ち葉、枝木、完全一本道、クルマ降りてじゃまな枝を折り…。

カーブで前方がわからない、クラクションをやたら鳴らす。写真はこれ1枚。

カーブミラーなし、また木漏れ日の日差し強く前方がよく見えない…。

 

「うーん、引き返すか、どうしよう」

しかしなかなかUターンできるような場所なし

前へ進むしかない。

背中に汗びっしょりの頃、着いたぁ!

 

ここだ、ここだ!

 

そして、行くぞ歩くぞ、熊除け鈴、頼むぞ!

 

 

鈴を鳴らしながら黙々と歩く。

たいしたことない、残り730だ。

 

ここは土橋のような道。両側崖か。

黙々歩くはやめて、

♬~線路は続くよ どこまでも…  ♪~おらあ銀座で ベコ飼うだぁ~ ♪

 

平坦、平たん、ちょろい、ちょろい、ところがギョ! 前方から!

 

動くものが! よかった、人だ。

「一乗谷の方から登って来たんですよ」

「クルマで! そこまで? 来れるんですか!」

「本丸もうすぐです、たいしたことないですよ」とニヤニヤ、というかニコニコというか。

「みんなすぐっていうですよ、いつも会う人にそういわれて私は泣いてきた」

「ほんとすぐ、ちょっと坂ありますが…」これだ!「……」しかししばらくいくと!

 

大手口だぁ!

 

虎口だ、やったぁ!涙目。しかしここからが。

 

腰が、膝が!

 

もう少しだ!

 

見、見えた! 石碑に「脇屋」の字が!

 

着いた! ばんざいだ! やった!

あぁ、久々のこの達成感!

高すぎて山びこがないのが残念。

「脇屋義助卿守戦之地」

脇屋義助のことはほとんど知らなかった。

新田義貞の鎌倉への出陣から、鎌倉、箱根、都、越前などの史跡をたどるなかで、兄に従い常に傍らにあって兄に尽くしたというその存在を知った。

 

「足利尊氏に弟・直義、楠木正成に正季、そして新田義貞に義助あり」

脇屋義助のことをよく知らない中で、太田駅前で義助像を見たときは、なんか嬉しかった。

尊氏像、正成像、義貞像が数多ある中で、「弟像は義助だけか、そして三峰城の碑も」

なんかそんな気持ちがこの山頂に私をいざなったような。

 

おお、一乗谷城が眼下遠くに。

 

そして、それよりも、おおっ!あれは日本海か、ハハハ、海が、海も見えた!

かくして三峰城、ご満悦にて下城いたし候。

義助さん、ありがとね。にいちゃんも。

 

義貞・義助兄弟主役の大河ドラマ、いつの日かあるといいな。

因みに福井市の藤島神社は、兄とともに脇屋義助もまた祭神という。

 

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