●信州 咆哮するつわもの達 二十九将星 諏訪頼水伝「家康の子を流人として預かるも…」上の巻 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

「諏訪高島城を築いた人ではないのか」

 

初代諏訪高島藩主ではあるけどね。そうではない」

 

「うーん、知らんなぁ、すわよりみず…。しかしほんとおまえは知らん人ばっかりよう書くわなぁ」

 

「よく知られてる歴史上の武将たちは、そりゃたくさん、しかも詳しく書かれているじゃないか」

 

「まあな、信長・秀吉・家康…は本屋にひしめいてるわ」

 

「だろう? だから俺みたいなものがさらに書くことできないし、くわしくなんて書けないよ、研究者でもないし。よってあまり知られていない…」

 

「…連中を書くか。それがねらいか」

 

「そう、大物大名のもとで、懸命に咆哮して生きた武将たちを少しでも掘り起こしてさ」

 

「あまり読んでもらえんけどなぁ、ま、気張れや!」

 

……てなわけで今回は諏訪頼水です。

ぜひまたご一読のほどを。

 

           ◆

諏訪頼水(すわよりみず 15701641) 
戦国~江戸初期の武将・大名。

諏訪高島藩初代藩主。

武田信玄に滅ぼされた諏訪宗家を大名として復活させた諏訪頼忠の嫡子。

しかし家康の支配下に置かれ、天正18(1590)年の家康の関東国替えにより武蔵国、ついで上野国・惣社に移封される。

関ヶ原の合戦後の慶長6(1601)年高島藩の初代藩主として復帰。

寛永3(1626)年、家康の六男・松平忠輝を配流者として藩内に預かる。没年72歳。

 

「なんと、忠輝公を我が藩で預かれというのか…」

頼水は暗い表情を浮かべ困惑した。

諏訪高島藩主として幕府には律義に仕えていたとはいえ、それにしても対処が難しい。

忠輝は流人なれど亡き家康の六男にして現3代将軍家光の叔父にあたり、飛から配流地を移されてきたのである。

 

頼水は二の丸に隣接した地に堀を巡らした「南の丸」を新たに築き、忠輝の居館を新築した。

現在の諏訪市役所庁舎から諏訪武道館のあたりが南の丸の跡地で、市役所敷地の一角に「松平忠輝館跡」を示す祠が立てられている。

因みにこの南の丸は、後に吉良上野介が嫡孫・吉良義周の配流地となる。

 

当時の高島城は諏訪湖中に浮かぶ風情ある水城だったという。

北斎の浮世絵などにも湖に突き出た城の姿が描かれている。

 

残念ながら現在の高島城は周囲が埋め立てで市街地化され湖まで数百㍍の距離だが、三層の天守閣や角櫓・冠木門・冠木橋などが復元され堀は水をたたえ、往時の姿を偲ばせてくれる。

 

忠輝の従者は80余人、幕府から1年に300両、米300人扶持(ぶち)が宛がわれ配流者として厚遇されていた。

頼水からは年薪1000駄が進上されたという。

 

厳しい監視も必要だが冷淡にも出来ず、その処遇には神経をとがらせた。

頼水は参勤交代で江戸から帰国した折と、新年の年賀には南の丸に必ず足を運び忠輝に目通りしていたという。

 

頼水は諏訪宗家の出身で、6歳の時諏訪大社の大祝(神職)を父・頼忠から譲られた。しかし諏訪頼重(頼忠の従兄)が武田に滅ぼされて以後、諏訪の領国は武田に支配されたままだった。

 

その後武田が滅び信長が急逝して、信濃がまさに無主動乱の地と化した時、頼忠・頼水父子は「好機至れり!」と、大名としての諏訪家再興を画策した。

 

しかし東から北条、南より徳川の諏訪への侵攻は激しかった。

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