諏訪頼水伝 下の巻
頼水は諏訪宗家の出身で、6歳の時諏訪大社の大祝(神職)を父・頼忠から譲られた。
しかし諏訪頼重(頼忠の従兄)が武田に滅ぼされて以後、諏訪の領国は武田に支配されたままだった。
その後武田が滅び信長が急逝して、信濃がまさに無主動乱の地と化した時、諏訪家は「好機至れり!」と、大名としての諏訪家再興を画策した。
しかし東から北条、南より徳川による諏訪への侵攻は激烈で、結局諏訪家は、徳川に臣従することで命脈を保ち、大名として復活した。
頼重死して40年の歳月が流れていた。
ところが天正18(1590)年、北条が滅び、家康が関東へ国替えされると、諏訪家は武蔵国へ、次いで上野国総社へ移封された。
40年ぶりに復帰を果たした先祖伝来の諏訪の地を離れることは実に不本意だったろう。
しかし今や山をも動かす天下人の秀吉、そして家康の力に服さざるを得なかったのである。
上野国・総社の地で頼水は、頼忠から家督を受け継ぎ藩主となった。
前橋市を訪ねると総社の城跡はほとんど無い。
頼水が諏訪大社から勧請したという立石(たついし)諏訪神社が、
「いつの日か、必ずや諏訪の地へ戻らん!」
という頼水の望郷の強い念の「痕跡」のごとく鎮座していた。
関ヶ原の合戦で家康に従い、戦後頼水の願いはかなってついに諏訪の地へ復帰となった。
禄高2万7千石、居城は高島城、頼水31歳、嫡子忠頼は7歳になっていた。
寛永11(1634)年、忠輝を高島城に預かって8年が経過した。
頼水の忠輝への丁重な対応に喜んだ将軍家光は、特に頼水を江戸城中に招いて饗応し杯を授けたという。
地道に徳川家に忠節を貫く頼水の労をねぎらったのである。
以後諏訪家は幕閣の信任を厚く得て幕末まで転封はなく、老中職などに栄進している。
頼水は藩政にも意欲的に取り組み、前領主の七公三民の重税で逃散していた百姓を呼び戻して新田開発を奨励するなどの施策を行ったという。
そんな頼水がかつての戦国武将としての剛毅な気風をのぞかせた逸話が伝えられている。
ある日、諏訪家の菩提寺・永明寺に罪人が逃げ込んだ。
頼水は罪人を引き渡すように寺に命じたが、僧侶は特権を楯にして引き渡さなかった。
怒った頼水は、
「寺を焼き払え!僧たちを捕まえよ!」
寺に火をかけ罪人を捕縛、かくまった僧侶とともに斬首したのである。
父・頼忠が開基した寺を焼亡させ僧侶を斬首するあたり、織田信長ばりの大胆な処置には周囲は驚愕したことだろう。
しかしその後には、新たな諏訪家の菩提寺・頼岳寺を建立した。
頼岳寺(茅野市ちの上原)は、かつての甲州道中の道筋に寛永8(1631)年創建された。
門前より本堂へ向かう急な石段の両脇に杉の巨木が立ち並ぶ。
本堂左手の御廟所に、頼水は父・頼忠、母・理昌院と並んで眠っている。
鬱蒼とした境内の後方に目をやると、かつて戦国大名としてこの地に覇を唱えたものの、信玄に滅ぼされた諏訪頼重の居城・上原城址が蒼い森の中にある。
完