●大坂・和泉佐野発 負けても負けぬ大坂の陣のもののふ達 塙団右衛門はいかに!  | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

長宗我部盛親木村重成後藤又兵衛薄田兼相(岩見重太郎)…。

大坂の陣にて大坂方として奮戦したもののふ達の足跡を巡ったレポートがそのままに。

その続きです。

 

盛親は、「わしは自らは死なぬ、必ず時は来る」と。腹を切らず斬首に。
八尾の戦いの際、盛親が戦場にて物見をしたという「物見の松」の史蹟が市街地にうずもれずに残されていた。


若き26歳の重成は、兜と毛髪に香をしのばせ若江の戦いに出陣、戦死。
討ち死した首級を検分した家康はその潔さに感涙したという。

「その遺髪甚だ薫ず」。

八尾の重成墓よりも、中之島に凛然と立っていた巨大な重成表忠碑は、一番のおどろきと感動ものだった。

 

又兵衛は、播磨一国の誘いを蹴って豊臣方として戦い抜いた。

道明寺の古戦場に立つ「後藤又兵衛基次之碑」また後藤又兵衛奮戦地碑」と刻まれた堂々たる石碑を見上げると、

又兵衛、家康を討ち取る!」

という伝説を本気にしたい活躍を想起させてくれた。

 

「狒々退治」の岩見重太郎こと薄田兼相は、

「槍折れたらならば太刀にて、太刀折れたらならば、組み討ちにて」

獅子奮迅の大暴れ、ついに誉田林の合戦で散った。

そして塙団右衛門直之

その墓所は泉佐野市に。

なんと大坂城から南へ遥か50キロも先。
大野治房の配下として出陣、岡部大学と先陣を争い、突出したところを敵の浅野勢に囲まれ討ち死。

いわゆる樫井の戦いである。

みな一騎当千の猛将だったのに。

彼らを上手く統率出来る将器が大坂方にはいなかったということか

 

総大将秀頼の出馬もついになかった。

それぞれが各地に散らばって眠っていることがなんとむなしく悔しいことか。

 

城外の戦場から撤退して城中に戻った毛利勝永、真田大助、大野治房らは…。

 

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