長宗我部盛親、木村重成、後藤又兵衛、薄田兼相(岩見重太郎)
大坂の陣にて大坂方として奮戦したもののふ達の足跡を巡ったレポートがそのままに。
その続きです。
盛親は、「わしは自らは死なぬ、必ず時は来る」と。腹を切らず斬首に。
八尾の戦いの際、
若き26歳の重成は、
討ち死した首級を検分した家康はその潔さに感涙したという。
「その遺髪甚だ薫ず」。
八尾の重成墓よりも、中之島に凛然と立っていた巨大な重成表忠碑は、一番のおどろきと感動ものだった。
又兵衛は、播磨一国の誘いを蹴って豊臣方として戦い抜いた。
「
という伝説を本気にしたい活躍を想起させてくれた。
「狒々退治」の岩見重太郎こと薄田兼相は、
「槍折れたらならば太刀にて、
獅子奮迅の大暴れ、ついに誉田林の合戦で散った。
そして塙団右衛門直之。
その墓所は泉佐野市に。
大野治房の配下として出陣、岡部大学と先陣を争い、
いわゆる樫井の戦いである。
みな一騎当千の猛将だったのに。
総大将秀頼の出馬もついになかった。
それぞれが各地に散らばって眠っていることがなんとむなしく悔しいことか。
城外の戦場から撤退して城中に戻った毛利勝永、真田大助、大野治房らは…。