「やるね、やったね、良勝さん。追い返したんだ、徳川勢を」
「大軍の油断って、古今東西尽きないね」
「それにしても山村さんなんて人物は、信州でもそう知られていないよな」
「そう、そうなんだ、だからこそすこしでも持ち上げて、なんとか本にしようかと思ってるわけさ」
「他には、誰なんだ?」
「脇坂安元とか、秋山信友、藤田小四郎…」
「秋山は聞いたことあるが…、あとは知らんなぁ、まぁ、がんばりや~」
山村良勝伝 下の巻
もともと、妻籠城の戦いはあの小牧長久手の、家康と秀吉の戦いの余波から勃発したものであった。
徳川方はここでは惨敗したものの、小牧・長久手の戦いの本戦では大敵秀吉と互角にわたりあった。
結局両者和を結び、政治的には家康は秀吉に服するという形で収束した。
木曽義昌・山村良勝にとって、なんとも煮え切らない感じの結果に終わった。
しかも秀吉から、
「義昌よ、この後は家康の配下として、その指揮に従うように」
とのお達し。
そして天正18(1590)年、家康の関東国替えが決まると、
「なに? 木曽から下総へ移れと!」
義昌・良勝主従の驚きの表情は落胆に変わった。
もはや致し方なし、主従は長く支配してきた故郷・木曽の地を離れ、遠く九十九里浜近くの下総・阿知戸1万石(現在の千葉県旭市網戸周辺)の領国へ。
旭市には義昌を顕彰した公園がつくられ、像も立てられている。
秀吉が木曽の潤沢な森林資源を直轄地としたかったのがこの移封の背景にあり、家康としても自らの関東の領国へ義昌を移さざるを得なかったといえる。
秀吉・家康という山をも動かす巨大な力に、木曽家は従わざるを得なかったのである。
悲劇は続いた。
義昌を継いだ2代目義利の行状が悪く、下総へ移って5年、木曽家は改易に。
良勝は浪々の身となった。
そんな良勝に家康から呼び出しが。
関ヶ原合戦直前のことであった。
「良勝よ。難儀な木曽路を抜ける手助けをしてくれぬか」
妻籠城でのしたたかな活躍ぶりは家康の耳にも伝わっていたのだろう。
かくして良勝は義弟の千村良重とともに家康配下の将として木曽へおもむいた。
木曽一帯は秀吉の蔵入り地(直轄地)とされており、犬山城主・石川光吉が妻籠城に拠って管理、西軍に味方していた。
良勝と良重は、西軍方になびいていた木曽の武士らを説得して味方につけ、石川光吉を追って妻籠城を奪還、関ヶ原へ木曽路を進軍する徳川秀忠本隊の道筋を確保、整備した。
結果的には上田城攻めにてこずった秀忠は関ヶ原に間に合わなかったのだが。
因みに秀忠が東軍勝利の報を受けたのは妻籠城においてであった。
戦後、徳川方に味方した良勝はじめ木曽の武士達に1万6千石余が与えられ、特に良勝は最大の5千石余を認められた。
かつての主家・木曽家は改易されたが、良勝は木曽代官、また福島の関の関守に任ぜられ、実質木曽の地を支配することになった。
また千村良重は美濃に4千石を与えられた。
以来山村家は幕末まで、大名に準ずる幕臣(交替寄合旗本)として、また尾張徳川家の家臣にも列し、江戸・名古屋に屋敷を許された。
現在、木曽町福島には、関所址や代々山村家が居住した山村代官屋敷の一部が復元され、屋敷の木曽駒ケ岳を望む借景庭園などが公開されている。
また同地区の良勝が開基した大通寺や、山村家の菩提寺・興禅寺などが、往時の代官職の威勢を物語る。
木曽義仲の血を受け継いだという木曽家は滅びたが、木曽出身の良勝が大名並の地位を得て、その後の木曽支配の伝統を守り抜いたのである。 完