大坂夏の陣最期。
後藤又兵衛、真田信繁、木村重成ら、戦死。
毛利勝永、真田大助、大野治長らは城中に撤退してきた。
私の大坂城初見参ははるか中学のころの修学旅行。
旅行前に見た大坂城のこの写真には目を見張った。
これはすごかった!
なんという石垣の高さ! 大手門の立派さ!
千貫櫓はまるで天守閣のよう。
そしてそびえ立つ巨大な天守閣!
まったく松本城の比ではないこのような大城を早く見たかったことを思い出す。
これは「日本の名城」(昭和34年人物往来社刊)の写真。
以後こんな写真を撮りたくてやってみたのだが地上からは無理のような。
そして大坂城の魅力は、このリズム感ある石垣列。
なんとも美しい。
さらに超巨大な、石垣というより巨岩の蛸石などに圧倒される。
大坂城を訪ねること数回、そのつど目を見張ってきた。
だが、今回は違う。
夏の陣で、城中で自害した豊臣方の将たちはどこにいるのか。
今まで石垣や天守閣、櫓ばかりに気をとられ、考えたことがなかった。
うかつだった。
外国人観光客でごった返す大坂城の山里曲輪にて、秀頼・淀君の「自刃の地」碑を見た。
初めてだ、今まで見逃していた。
そしてもう一つ、山里曲輪西端の石垣の上。
写真中央の小さな森の中。
これはまったく気が付かなかった。
誰もいなかった。
民間の有志の方たちで祀った祠という。
小じんまりした祠は、いささか荒れていた。
秀頼とともに自害した三十二名を祀っていた。
知らない人ばかりの名の最後に、女性の名も。
淀君を育てた大蔵局、大蔵局は大野治長の母でもある。
饗庭局は浅井時代からの淀君の側近。
秀頼を育てた宮内局、右京大夫の局…。
秀頼さんよ、なんとかならなかったのかよ。
祠を背に天守を仰ぐ。
祠から大阪の街を望む。