●「信州 咆哮するもののふ達 三十三将星」 松本城主石川康長を襲った悲劇 下の巻 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

石川康長伝 下の巻

 

「な、なにっ! 大久保長安様が亡くなったと!」
慶長18(1613)年、突然の早馬の知らせを康長は、暗闇に不気味な稲妻の奔りを見る思いで聞いた。

 

大久保長安は当時幕閣で勘定奉行・老中格として権勢をふるっていた
その長安の嫡子・藤十郎の正室に康長の娘は嫁いでいた。

まさに石川家は大久保家と親族一族関係として繋がっていたのである。

 

一介の猿楽能の役者だったという長安は、金山・銀山などの発掘の才をもって家康に重用され、華々しい出世の勢いを増していた。

ところが死後不正蓄財が発覚、一族は厳しく咎めら長安の七人の子もことごとく処刑された。

石川家も連座して改易、康長の他、康勝・康次ともに遠く九州の豊後佐伯へ流罪となった

 

隠田隠匿の罪も併せ咎められたという。 

また家康はかつての数正の豊臣への出奔の恨みを、この事件に合わせて石川家に晴らしたとも。

 

さらに長安事件の3年前、康勝が秀吉法要の豊国祭に参列したことや、松本城の堅固な建造などが幕府を警戒させ、大久保事件を口実に石川家を葬ったともいわれる。


石川家が廃絶された翌年、大坂の陣が勃発した。

改易され流浪していた弟・康勝は大坂城に入り、真田信繁配下として最後まで戦い討ち死にしている。

「もののふ」としての意地なのだろうか。

 

九州に配流された後の康長は、佐伯の地で89歳にて没した。
 

松本市大手の石川家菩提寺・正行寺

毎年師走、ここで石川家縁者・ゆかりの人々がつくる「松本石川会」によって、康長が藩主のころから豊後で最期を迎えるまで所持していた念持仏供養の法要が営まれる。

私もかつて法要の末席に加えていただいた。
 

木像の阿弥陀如来像は金箔がいまだ鮮やかで、穏やかな表情をしていた。

仏像は昭和46(1971)年に豊後の配流地から松本にもたらされ、康長まさに350年ぶりの「里帰り」となった。

 

康長ゆかりのお手植えの松が、松本城主の湯殿といわれた市内浅間温泉の枇杷の湯に見事な姿に成長している。

康長配流後も湯守は弟の昌光の子孫が小口氏を称し、その任を継承していたという。

 

※追記 平成30(2018)4月、またも乱杭を発見

先に松本城東の総堀跡から乱杭が発見されたが、今度は城南側の外堀の土塁下に、およそ70本近くの乱杭が発見された。

石川康長は、徳川と戦う本格的な要塞として松本城を建造していたことをうかがわせる。           

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