●信州 咆哮するもののふ達 三十三将星 「松本城完成の城主・石川康長を襲った悲劇」上の巻 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

名将加藤清正を松本城に招いたという石川康長。

国宝松本城を完成した人である。

 

父は、あの家康の片腕といわれた石川数正。

しかし周知のごとく数正は家康のもとを去り、秀吉に奔った。

その時、康長もともに大坂へ。

 

父を継いで松本城主の座に就いたのは39歳。

松本城完成に心血を注いだ。

ところが予期せぬ大事件勃発が康長を襲ったのは60歳の時だった。


石川康長(いしかわやすなが 15541642)
安土桃山~江戸時代前期の武将・大名。三長ともいう。三河出身

初代松本藩主石川数正の嫡男。

天正13(1585)年、父とともに三河岡崎の徳川家を去り秀吉に仕える。

文禄元(1592)年、父を継いで2代松本藩主となり、数年後松本城の大天守を完成させる。

関ヶ原の戦では家康方に味方、本領安堵される。

しかし後に大久保長安事件に連座して改易、豊後へ流罪となる。

没年89

        ◆
「さていかにするか」康長は迷った。

「石田三成、家康打倒のため挙兵!」の報が下野・小山の家康率いる上杉攻めの陣中にもたらされた。

 

三成は豊臣秀頼を擁しての挙兵という。

家康は諸将を集め、

「方々、この家康に与するも三成に味方するも御随意でござる」

と言い放ち黙したまま。

豊臣子飼いの多くの武将たちは困惑したが、康長の立場は特に微妙だった。

 

「かつて我が父は家康殿のもとを出奔し豊臣に着いたさて自分はどうする?」
迷い惑った末、「父は父、わしはわしぞ!」

康長は家康方と決した。

一世一代の決断だった。

 

そして2千余の将兵を率い中山道を西に向かう秀忠軍に従い、西軍に味方した真田昌幸・信繁(幸村)の立てこもる上田城攻めに参陣した。

 

苦戦した攻城戦を中断して秀忠が関ヶ原へ向かった後、康長は同じ信州の大名の仙石秀久・諏訪頼水などと上田城抑えの軍として留まり、真田の動きを封じた。

 

そして関ヶ原東軍大勝利の報がもたらされ上田城は開城、真田は配流。

康長はそのまま松本藩の本領を安堵された
 

康長が父の死後、松本藩主10万石を継いだのは文禄元(1592)年、松本の地へ来て2年目のことである。
康長は弟の康勝に奥仁科藩として15千石、三男康次に5千石を分与、自らは8万石の松本城主となった。

 

そして「松本の地を我が石川家第二の故郷とせん!」

との父の遺志を受け継ぎ、城郭・城下町づくりに心血を注いだ。
 

松本城内の石垣で高さ4㍍もの巨大な「玄蕃石」にまつわる伝説は、康長の築城への熱意の一端を物語る。

 

この巨石の運搬に難渋し不満をもらした人夫を康長は一刀のもとに首を刎ね、工事の遅滞を断固許さなかったという。

当時康長は玄蕃頭を称していたことから玄蕃石と名付けられ、今も松本城最大の石として、松本市役所正面の太鼓門の脇に残っている。

 

 

また平成15~17年の総堀の発掘調査において、市内の通称・片端町の堀の水中から上を向く先の鋭く尖った杭列が多数発見され、関係者を驚かせた。

 

松本城は概して石垣が低い。

康長はその欠点を補うため、堀の中にあらかじめ鋭い杭列を埋め込んでおき、城攻めをした兵士が石垣を下って水中に入った時の防御策を講じていたのである。

 

全国的にもきわめて珍しいこの堀の遺構は康長のきめ細かい城郭造りの意欲の一端をうかがわせる。

                        ▼片端の堀。杭列は左側から発見された

壮大な松本城天守が成ったのはいつか。

 

康長が城主であった期間となれば、文禄3(1593)~慶長6(1601)年頃ということになるが、諸説あってはっきりしない。

 

また康長は、慶長15(1610)年に筑摩神社(松本市筑摩)に、桃山様式で入母屋造・こけら葺の豪華な拝殿を建造奉献するなど、松本へ入府以来20年、丹念な城郭・城下町づくりは順調に完成しつつあった。

 

 

ところが、予期せぬ大事件が康長の知らぬところでうごめいていた。

下の巻へ続く

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