我がお抱え絵師、「氏郷さんはこんな兜でよかったでしょうか?」と。
それにしてもなかなかのイケメンにて。
泉下の氏郷さんも満足かな。
大河ドラマではかつて「伊達政宗」にかなり登場していた気がするがあまり記憶が無い。
それより氏郷さんは大河ドラマの主役として文武両面で描けて、いいドラマになりそうな。
面白い逸話が多かったのに、ほとんど書けなかった感じ。
ともあれ「信州往来もののふ列伝 最終巻 蒲生氏郷」、かくのごとくまとめました。またぜひご一読のほどを。
◆蒲生氏郷(がもううじさと 1556~1595)
安土桃山時代の武将。近江の出身。
幼年期に信長に見込まれ家臣となる。
信長死後は秀吉に仕え、小牧長久手の合戦後に松ヶ島城(三重県松阪市)12万石を与えられる。
その後も着実に戦功を重ね、天正18(1590)年には会津黒川城(現・会津若松城)90万石の大守に任ぜられる。
有力大名として将来を期待されたが40歳にて病死。
氏郷が会津黒川城の太守の座に就いたとある日、うかぬ表情で柱に寄り掛かり夜空を眺めていた。
近習が体調を気遣って声をかけると、
「太守とはいえ、奥州の辺境の地に果てるかもしれぬと思うてな。石高など低くても都の近くならば、わしもいつか…」
ともらしたという。
堅実で地道な武将の氏郷も、実は大いなる野望を秘めていたことをうかがわせる逸話である。
近江国日野城主(滋賀県日野町)の蒲生賢秀の嫡子として生まれた氏郷は、父が信長に臣従すると人質として信長のもとに送られた。
▼日野城址
大人達の深夜まで及ぶ武辺談義を近侍の若者がみな居眠りする中、氏郷のみ姿勢を崩さず耳を傾ける態度などは周囲をおおいに感心させ、特に信長は次女を娶らせるほど氏郷を高く買った。
信長の眼鏡に叶い、氏郷は姉川、長篠の合戦などで活躍を重ねた。
ところが突然、本能寺での信長の横死。
氏郷は光秀の誘いをはねつけ、信長の家族をいち早く安土から自らの日野城にかくまい籠城した。
後に秀吉はこの氏郷の機転を称賛、賤ケ岳の合戦後に伊勢松ヶ島城12万石の城主とした。氏郷29歳の頃である。
氏郷の故郷・日野城跡には、「蒲生氏郷公産湯の井戸」と刻まれた石碑や、近くには高さ4メートルほどの氏郷像が立ち、また日野町を通る国道は「氏郷街道」と呼ばれている。
氏郷は戦場で常に自ら陣頭に立ち指揮・奮戦する大将だった。
こんな逸話が残っている。
新しく召し抱えた武士たちを集め氏郷はこう言ったという。
「よいか、戦場に出ると我が軍には銀の鯰尾の兜をかぶった男が先陣にいる。そいつに負けぬよう働け」と。
その兜の男とは氏郷自身のことなのである。
また氏郷は家臣思いであった。
月に一度、家臣全員を招き、「互いに怨まず、怒らず」を約束事として身分差を構わない論議を許した。
その後酒宴を催し、氏郷自ら風呂をわかしてもてなしたという。
まさに理想的な大将・殿様というべきか。
氏郷の会津入封は、「北の伊達、また江戸の家康の抑えじゃ、氏郷よ、ぜひ頼む」と、しぶる氏郷を強引に秀吉が説得したという。
しかし真のねらいは、人望の厚い氏郷を「都近くに置いておくわけにはいかぬ」と、その動向を警戒したからともいわれている。
実際、氏郷は何事にもよく出来た人であった。
「利休七哲」の筆頭たる茶人であり、連歌の達人、そして洗礼名「レオン」というキリシタン大名であった。
文禄の役の最中に発病、氏郷は京都で病死した。
墓所は大徳寺の黄梅院に、また会津若松市の興徳寺に遺髪が埋納された。
さて、最後にわが信州と氏郷の関わりについて。
天正10(1582)年3月、信長は安土から甲州攻めの大軍団を率いて諏訪・法華寺に到着。
広大な境内に、明智光秀、丹羽長秀、高山右近、細川忠興、筒井順慶、堀秀政、そして蒲生氏郷など、次々と錚々たる諸将が陣を構えた。
しかしすでに武田は滅亡、さすがの氏郷もその武勇を示すことはなかった。