戦場で率先して陣頭に立ち、討ち死にして逝った猛将。
森長可、依田信蕃などは、その最たる将領といえようか。
長可は常に真っ先に出撃するため、家臣らはいつもあわてて後を追ったという。
ついに小牧長久手にて討ち死。
信蕃は、信州・岩尾城攻めで、まるで家臣の盾となるように先陣を進み、銃弾を浴び戦死した。
家康はその死をひどく悲しがったという。
同じように氏郷も常に先陣で突き進む将であったという。
氏郷は、新参の家臣たちにこう云ったという。
「よいか、戦場へ出たら先陣に必ず鯰尾の兜の武者がいる。その男に負けないよう働け」と。
その兜の男こそ、氏郷自身である。
その鯰尾の兜には、3発の銃痕が残っていたという。
茶の達人にして、歌人、そしてキリシタン、そして戦場では常に先陣を駆け抜けた名将、蒲生氏郷。
40歳の病死とはなんともったいない。
毒殺説がささやかれたのは当然か。
氏郷は京都・大徳寺塔頭の黄梅院に葬られた。
遺骸は太刀を抱いていたという。
故郷・滋賀県日野町の信楽院には遺髪塔が。
そして会津若松市の興徳寺にも遺髪が埋納され墓所が築かれた。
辞世の碑が立てられている。