●乱軍の中、よく生き残った蒲生氏郷だったのに、40歳の死はあまりに… | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

戦場で率先して陣頭に立ち、討ち死にして逝った猛将。

森長可依田信蕃などは、その最たる将領といえようか。

 

長可は常に真っ先に出撃するため、家臣らはいつもあわてて後を追ったという。

ついに小牧長久手にて討ち死。

信蕃は、信州・岩尾城攻めで、まるで家臣の盾となるように先陣を進み、銃弾を浴び戦死した。

家康はその死をひどく悲しがったという。

 

同じように氏郷も常に先陣で突き進む将であったという。

 

氏郷は、新参の家臣たちにこう云ったという。

「よいか、戦場へ出たら先陣に必ず鯰尾の兜の武者がいる。その男に負けないよう働け」と。

その兜の男こそ、氏郷自身である。

その鯰尾の兜には、3発の銃痕が残っていたという。

 

茶の達人にして、歌人、そしてキリシタン、そして戦場では常に先陣を駆け抜けた名将、蒲生氏郷。

40歳の病死とはなんともったいない。

毒殺説がささやかれたのは当然か。

 

氏郷は京都・大徳寺塔頭の黄梅院に葬られた。

遺骸は太刀を抱いていたという。

故郷・滋賀県日野町の信楽院には遺髪塔が。

 

 

そして会津若松市の興徳寺にも遺髪が埋納され墓所が築かれた。

辞世の碑が立てられている。

 

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