関ヶ原で、毛利勢の後詰にいた長宗我部盛親は、ほとんど戦うこともなく戦線を退き、敗軍の将となった。
毛利勝永は、なんと毛利輝元の陣中・南宮山に、まったく戦闘しなかった。
石田方の大谷吉継隊に、一子・大谷吉勝が。
敗戦の戦場を抜け流浪、大坂の陣で真田隊へ。
長宗我部盛親は、京都にて浪人、いざ大坂城へ。
明石全登は関ヶ原で宇喜多隊に在陣敗戦、もう一度、家康と戦うために大坂へ。
この他、後藤又兵衛、薄田兼相、塙団右衛門、そして木村重成などなど。
真田信繁とともに懸命に家康と戦って、散って、逝った「もののふ」たちがいた。
京都・下京区富小路通六条上ル蓮光寺にて、初めて長宗我部盛親の墓所を訪ねた時。
真田信繁以外、今まであまり思いもしなかった、考えもしなかった大坂の陣の敗軍の将のことを
ここ蓮光寺にてふと立ち止まり、空を仰ぎ思った。
「…敗軍の将たちの咆哮を聞きにいかねば!」
そういえば、かつて彦根で木村重成の首塚を見た時も。
あの時も、そんなこと思った。
どんどん忘れる、すぐ忘れる、早くせねば、早く行かねば。