●山県昌景、豪雪地帯で大暴れ、猛攻! | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

三方原の合戦において、「げにおそろしきは山県という者!」と、武田軍団の中の山県隊を恐れおののいて家康は浜松城に逃げ帰ったという。

信長は、明智城攻防戦で6万の大軍で臨んだところ、山県昌景が6千で来ると聞き、さっさと後退したという。

山県昌景は小兵の武将だったようだ。
しかしその体躯から発する声はあたりの者の耳をつんざき、太刀さばきは水車のごとくだったという。
古書「甲越信戦録」は
四尺三寸の大太刀真っ甲に差しかざし……真っ向縦割り、輪切り、縦切り、膝折、腰車と切り伏せ、切り伏せる

と、昌景のすさまじい戦いぶりを描いている。

冬季長野オリンピックのジャンプ会場が望める風光明媚な白馬村。
 
目を西に転ずると、飯森城。
写真中央の山城で、後方は五竜スキー場。
 
この山城は別名、「一夜山城」。
そのいわれは、
弘治2(1556)年、城主・飯森春盛は立て籠もって山県軍と戦おうとしたが、千見城(大町市)が昌景に壊滅されたと聞き、一夜にして城を捨て、越後の上杉に奔ったという。

一帯は有名な豪雪地帯。
翌年、春盛は居城を奪還せんと再び越後から北安曇の地へ。
上杉の後押しを取り付けたのだろう。
しかし春、雪がとけると、再び南から昌景が攻めてきた。

いまどきは、残雪のきれいな白馬地方だが。
 

決戦場は平倉城
飯森城(一夜山城)より北へ20キロほどの山城。
昌景の攻めは速く、強硬いや、凶猛だった…。
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