●「赤備え」のもとは井伊でもなければ真田でもなかった | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

「真田の赤備え」の突撃部隊は世に名高い。
だがもともとは井伊直政でもない、そして山県昌景でもなく、昌景の兄とも叔父ともいわれる飯富虎昌が最初という。

次回「信州往来もののふ列伝 巻88」は、その山県昌景の登場。
馬場信春、内藤修理、高坂弾正とともに、武田四名臣、武田四天王などと称される信玄の信頼厚い宿将だ。

▼甲府市・武田神社(躑躅ヶ崎館跡)近くの山県昌景屋敷跡。
現在は中学校の敷地となっている。

 

「昌景、明日はそちの旗を瀬田にかかげよ」
よく知られる信玄の今際のきわに発した言葉。

まさに赤備えの山県昌景は、武田軍団の先鋒隊だった。
朦朧とする夢の中で信玄はすでに都を目の前にした近江の瀬田に立っていたのである。
▼宇治川に架かる瀬田の唐橋。写真奥に比叡山の山並みが。
 

………武田軍の信州侵攻は、当初は板垣信方、馬場信春などが先陣を切っていた。
しかし松本平の北、北安曇の仁科三湖以北の地の制圧を、信玄は若き昌景に任せた。
当時昌景は27歳頃、まだ飯富源四郎と呼ばれていた。

昌景の攻めは北安曇の豪族たちが震え上がるほど容赦ない激烈なものだった。

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