●上田市は真田・赤松…そして この老中も注目 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

先日、地元新聞の片隅にこんな小さな記事が。
 
そう! 上田藩主・松平忠固!
この人も上田市としては注目の人物だ。
昨今の真田、真田一色の風潮に「明倫会」の人々も頑張ったのだろう。
こうやって今まで知られなかった歴史上の人物に注目があたるようになるのもまた大河ドラマ効果といえる。

映画「桜田門外の変」に忠固が登場していた。
かつて
「信州往来もののふ列伝 巻72 松平忠固」でとしてまとめたものです。
ご一読のほどを。           

            

松平忠固(まつだいらただかた 1812~1859)
田松平藩第6代藩主。当初は忠優(ただます)
譜代大名の名門・姫路藩主酒井忠実の次男だったが上田松平藩主の養嗣子となり、19歳で藩主となる。
寺社奉行や大坂城代を歴任、嘉永元(1848)年に老中
一貫して開国・交易を主張、日米和親条約・修好通商条約の締結を推進。
安政5(1857)老中を罷免され隠居、2年後に死去。
享年48

 

来年の大河ドラマ主役は真田信繁(幸村)ということで、上田周辺は大変な盛り上がりを見せている。
喜ばしいことだが上田には忘れてほしくない武士はまだいる。
竜馬より早く議会政治を提唱した赤松小三郎(21)然り、今巻の松平忠固然り。

忠固は尊王攘夷論がうずまく幕末にあって、開国交易を断然と主張して日米条約調印を推進した人物である。

残念ながら忠固は信州の出身ではない。
だが37歳で老中に栄進して国政の中枢にありながら、上田地方の蚕業の発展に力を尽くした。

忠固は江戸で死去したが遺髪と遺歯が上田市中央の願行寺(がんぎょうじ)に埋納されている。
 
墓塔には「故従四位下行侍従兼伊賀守上田源公髪歯冢」とある。
右端が忠固墓。

 

忠固が老中職にあった嘉永6(1853)年、ペリー艦隊が浦賀に来航、国内は「攘夷か開国か」で驚天動地の混乱におちいった。

幕閣が周章狼狽する中、忠固の主張は瞭然としていた。
「開国して諸外国と通商交易するのが世界の潮流ですぞ」と。
かくして尊王攘夷の権化ともいうべき海防参与の水戸藩主・水戸斉昭とは真っ向からぶつかった。


「交易は絶対にならぬ!」と斉昭。
「今のままでは戦になる。まず通商条約を!」
一歩も引かぬ忠固

怒り心頭の斉昭は辞職願を出す。
困り果てた老中首座の安部正弘は忠固を免職にして斉昭を復活させ…。
国難そっちのけのあきれた人事騒動に混乱の様相がわかる。


忠固は2年後老中に復活し、再び幕閣の中枢に入った。
今度の難問は日米修好通商条約だった。
周囲は「調印に勅許を得よ」。

だが忠固は、
「幕府は朝廷よりもともと政権を委譲されており、開国するに勅許は不要」
と突っぱねた。

そして開国派の彦根藩主・井伊直弼を大老として招き入れ、勅許を得ず条約を締結したのである。
さすがの直弼も締結後、忠固を罷免せざるをえなかった。


かくのごとき忠固の傲岸不屈な強い意志があったからこそ日本の開国がなったといえようか。


忠固は江戸在府が多く上田在藩の期間は長くはなかった。
だが「諸外国と通商交易する時代が必ず来る」として、上田地方の生糸の増産を奨励した。
安政4(1857)年上田と江戸に産物会所を設置し、いち早く横浜に生糸を出荷、輸出する体制を整えた。

周知のように明治から昭和にかけて日本最大の輸出品は生糸で国益を支えた。
忠固の目は確かなものであったことが分かる。


忠固はまた、黒船に乗り込み異国へ渡ろうとして拘禁された吉田松陰に深い同情を寄せた。

使いを密かに長州・萩の獄に派遣、連座して蟄居中の佐久間象山の赦免を考えていると松陰を慰問しているほどである。


残念ながら忠固を偲ぶゆかりの地は少ない。

忠固が老中であった頃、上田藩の上屋敷は現在の皇居・二重橋前あたりにあったという。
 

上田城跡公園には忠固はじめ歴代上田藩主を祀る松平神社が設けられたが、今は真田神社となってしまった。

上田高校正門として残る藩主屋敷の表門は寬永2(1790)年建立という。
忠固もこの門を出入りしたことになる。
 
忠固が信州出身ではないのは残念だが、時代を見る確かな眼を持った上田藩主だった。

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