●最も親しみ覚える我が友四十七士となれば、そりゃもう信州出身の… | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

あぁ、この姿は饅頭笠に雨合羽、雪降る中を出かける赤埴源蔵重賢ではないか。
  
 あの「赤垣源蔵徳利の別れ」で知られる源蔵がまさか、まさか我が信州の飯田の出身とは! 
知らんかったなぁ。
飯田の街並の中に、源蔵誕生地の看板を見つけたときは嬉しかった。
赤穂浪士をぐんと身近に感じた。
 
さて、その「徳利の別れ」の物語とは。
子ども心に胸を打たれた(ジーン)話はこんなだったか。

-----------「義姉上、源蔵はしばらく旅に出ますゆえ、今日は兄上と一献交わしたく参りました。御在宅でしょうか」

酒飲みの源蔵を嫌う兄は居留守をつかう。

すると源蔵は兄の羽織を貸してほしいと頼み兄の部屋へ。

羽織を床の間にかかげ、その前に正座して頭をさげぶつぶつ何やら言っている。

そして持参した徳利酒を一人で飲みながら羽織に向かって何か話しかけてはまた頭をさげている。

襖をそっと開けてのぞく兄と義姉。

「何をしておるのじゃ、源蔵は?」

しばらくすると、

「義姉上、おじゃましました。兄上にくれぐれもよろしゅう」

と羽織を返し、雪降る中を去っていった。

----------翌朝、江戸市中は赤穂浪士の吉良討ち入りで大騒ぎ。

「まさかっ!」

と家を飛び出して大通りへ走る兄。

すると四十七士が雪道を整然と並び、高輪泉岳寺へと向かっていくではないか。

あぁ、その中に弟・源蔵のりりしい、実にりりしい姿が!

「源蔵、源蔵!兄を許してくれぇ!」
下の絵は大石神社に掲げられていた、まさにその物語の絵。
 

源蔵の父は塩山十左衛門といって、飯田藩5万5千石・脇坂家に仕えていた。
その脇坂家が寛文12(1672)年、転封で播磨(兵庫県)龍野藩へ。

そして源蔵は隣藩の赤穂・浅野家の赤埴家養嗣子となった。

養父は赤埴一閑。馬廻役二百石で仕えた。
写真下は大石神社に居並ぶ石像の源蔵像
そして江戸・泉岳寺に眠る源蔵の墓。
 
  
 

 
「我が友・源蔵さんよ~。かくして信州飯田→赤穂→泉岳寺と訪ねてきたよ~」
いささかしんみりだぁ。
「信州往来もののふ列伝 巻44 赤埴源蔵伝」もぜひ、ご一読くだされ。

おっと、あしたは龍野城に行かねばね。
そしてその前に、大石主税くんについて書かねば。

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