記録として織女の名前が見えるのは、紀元前千年頃、殷代末期の「大載礼記」「夏小正」。
織女と牽牛の名前は周代(紀元前1046-紀元前256)の「詩経」(孔子前551-前479)の時代には成立していたものと考えられます。
七夕の話として記載されているものは、六朝時代(222-589)の「荊楚歳時記」(六朝の梁(502-557)・宋懍(そうりん)の著)となっています。
もともと七夕伝説は口頭伝承のため、さまざまな形があります。織女の原型も西王母とされているため、中国創世神話が元とも考えられていて、成立時期の特定はされていません。
「荊楚歳時記」中のお話は、「働き者の天帝の娘・織女は、天帝のはからいで同じく働き者の河東に住む牛郎と結婚したが、二人は怠け者となってしまいました。怒った天帝により川の東(牽牛)と西(織女)に 引き離され、一年に一度、七月七日の夜だけ会う事を許されたのです。
それから七夕の日になると、鵲(かささぎ)の群れが飛んできて、天の川に翼の橋をつくり、二人の逢瀬を助けています。」という標準的なものです。
また「荊楚歳時記」中には、お話とともに乞巧節(きこうせつ)という年中行事の説明があり、それは織女にちなみ、七夕には瓜をそなえ針に糸を通して、裁縫・手芸に巧みにならんと願い乞う行事でした。
日本への伝来も確定出来ませんが、記録には日本書紀・持統五年(691)七月七日条に七夕の行事が催され、翌年にも同様の記録があります。
また、元明朝の続日本紀和銅三年(710)七月七日条には瓜の献上があったらしく、文武百官が賀辞を奏上した、とあります。