大正2年に東京府体育委員会から公布された「学校体操教授要項」の中の競争を主とする遊戯の中に挙げられています。
それは、当時の数少ない遊戯の中で最も児童達に親しまれたものでした。
大正6年、東京女子高等師範学校の永井道明教授により、初めて四角いコートが紹介されました。
この原型はドイツの「ヘッズベル」という現在のドッジボールに似た室内競技をアレンジしたもので「方形デッドボール」と呼ばれ、特に東京市の小学校では高次なルールを作って競技的に扱われるようになりました。
しかし、この段階でもまだ内野のキャッチは認められていませんでした。
大正15年、欧米留学から帰朝した東京高等師範学校の大谷武一教授により「ドッジボール」(ドッジ=DODGEとは身をかわすという意味)と改名され、今までの「円形デッドボール」「方形ドッジボール」と改められました。
また遊戯方法もより積極的にする意味で、内野にボールをキャッチすることを許しキャッチしたものは除外されないという方法が採用されました。
その後、従来「デッドボール」と呼ばれていた遊戯は「ドッジボール」として伝わるようになり、戦後、様々な形式のドッジボールが考案され、地域独特のルールなども生まれ子供から大人まで幅広く親しまれています。