横手のかまくら。 | 女浪士 あずみ

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横手のかまくらは、約450年の歴史があるといわれています。

藩政の頃、武家の住んでいる内町(うちまち)では、旧暦1月14日の夜、四角い雪の壁を作り、その中に門松やしめ縄などを入れ、お神酒や餅を供えてから燃やし、災難を除き子どもの無事成長を祈った左義長のかまくらが行われました。

一方、商人の住んでいる外町(とまち)では、旧暦1月15日の夜、町内の井戸のそばに雪穴を作り、水神様(おしずの神さん)を祀り、よい水に恵まれるようにと祈りました。

また、当時の子ども達の間では、積もった雪に穴をあけて、その中に入って遊ぶ雪遊びがありました。

これらの風習が長い年月をかけて融合し、現在のような「かまくら」になったといわれています。

大正の終わり頃までは、現在のように各家々でかまくらをつくるのではなく、町内ごとに行われていたようです。

かまくらの夜は、満月が煌々とかまくらを照らし、月明かりに浮かぶかまくらや、灯るローソクの火には情緒深いものがあります。

子どもたちは、月明かりに自分の影をうつして占ったり、固く圧雪した雪に、雪下駄をきしませて歩いたりしたものです。

昭和11年、ドイツの建築家ブルーノ・タウトがかまくらを見てメルヘンの世界を絶賛し、彼の著書「日本美の再発見」にそのときの感動を伝えています。

「すばらしい美しさだ。これほど美しいものを、私はかつて見たこともなければまた予期もしていなかった。これは今度の旅行の冠冕だ。

この見事なカマクラ、子どもたちのこの雪室は、子どもたちは甘酒を一杯すすめてくれるのである。

こんな時には、大人たちはこの子たちに一銭を与えることになっている。ここにも美しい日本がある。」

昭和10年頃までは雪室のかまくらが作られていましたが、天井が落ちる危険があったため止められ、天井にむしろなどを掛け、入口にはござなどを下げました。

昭和27年より、かまくらの開催日が新暦2月15日となりました。

その後、「ぼんでん」と合わせ「雪まつり」として開催することになりました。

昭和34年にモデルかまくらが作られ、これを契機に現在のようなかまくらが作られるようになりました。

昭和37年頃になると、自動車の交通量が多くなり、交通の邪魔にならないようにと注意が出たため、だんだんかまくらの形が縦長になってきました。

昭和44年になると自動車の交通量が多くなり、規制を受けた道路はかまくらが作られなくなりました。

この頃よりかまくらの数がだんだん少なくなっていきました。

これを受けて、昭和46年頃にはミニかまくら運動がおき、町中にミニかまくらが作られるようになりました。

この頃から、市内に点在していたかまくらを集約した「かまくら通り」を設け、一層の観光化がはかられました。