堀田正信① | 矢的竜のひこね発掘

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ご当地在住の作家が彦根の今昔を掘り起こします。

 いまや三流国家に成り果てたわが国の、与党の腐敗ぶりと野党の凋落に愛想が尽きている。

 政治家はおしなべて自分本位で、国民の幸福など念頭にない。ともかく己の座にしがみつくことしか頭になく、指導者たる資格を欠いている。

 

 私が期待する政治家を絵にしたのが下図である。このブログで使った挿絵だが再掲させていただく。

 

 

 こうあってほしい、という願望がペーパーバックの第三弾に、堀田正信が主人公の長編小説「最後の殉死」を繰り上げて上梓する気持ちにつながった。

 

 堀田正信についてご存じの方は、ほとんどいらっしゃらない、と思うので、角川「日本史辞典」をそのまま転載する。

 

 ほったまさのぶ 堀田正信 1632-80 (寛永9-延宝8) 下総佐倉藩主。正盛の子。父の殉死とともに襲封。1660(万治3)江戸幕府4代将軍徳川家綱に対し、老中松平信綱を中心とする幕政批判の上書を呈し、許可を得ず無断で下総佐倉の居城に帰国した。幕府は正信発狂との理由で死罪を免じ、所領を没収した。80(延宝8)家綱死去の節自刃した。

 

 堀田正信は「奇行の男」として歴史上に汚名を残している。①無断帰国して藩を返上、②幽閉中に脱出して京の町を放浪、➂禁令を破って殉死を決行。

 これだけ並べると、「狂人」と言われるだけの資格はある。

 

 まずは「発狂」と断定された無断帰国について、取り上げてみよう。

 

 諸国の大名は原則として一年おきに江戸と国元を往復する義務(参勤交代)を課せられており、出府中に江戸を離れることは論外であろう。無許可で国元に帰ったことに世間が唖然としたのは想像に難くない。

 

 そもそも藩主たる者、勝手な行動は許されない。一人きりになれるのは厠(便所)の中だけだった。藩の最高権力者ゆえに勝手な行動は許されない。暗愚な藩主だと藩が滅び、藩士とその家族は路頭に迷うことになるから、重臣たちが結束して藩主を座敷牢に押し込め、聡明な弟に家督相続させることさえあったという。

 

 いや、その前に父親がいる。長男が後を継ぐのが徳川の鉄則とはいえ、病弱と申し立てて次男以下に継がせる道はある。将軍の寵臣であった父の正盛には、どのような手も使えたはずだが、その必要は無かった訳だ。

 

 順当に相続した点からみても、正信が無能な長男であったはずが無い。無断帰国をする際にも、腹心の協力を得て行動を起こしたにちがいない。

 

 その正信が幕政批判という思い切った行動に出た裏には、よほどの理由があっただろう。そういう想定で彼が生きた時代を調べ、優秀な頭脳と行動力を持った若者が、どういうことを考えどう動いたか、を綿密に組み上げていったのが「最後の殉死」である。(続く)