掘田正信② | 矢的竜のひこね発掘

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ご当地在住の作家が彦根の今昔を掘り起こします。

 260余年の江戸時代で四代将軍・家綱の時代に一番興味を抱いている。11歳の将軍では決裁できないから、老中格の松平信綱と2代将軍・秀忠の庶子(正妻でない女性が産んだ子)である保科正之がバックアップする中で、事件は多発している。

 

 佐倉藩主になった正信に影響を及ぼした大きな事件は、下記のようなものが挙げられる。

 

 由比正雪の乱、佐倉惣五郎の百姓一揆と処刑、玉川上水の完成、祖父・酒井忠勝の老中罷免、明暦の大火、鄭成功の支援要請。

 

 徳川幕府発足から半世紀過ぎた当時は、戦乱のない平和な時代であったが、改易という藩の取り潰しによって江戸には多数の浪人があふれ、全国の諸藩も財政悪化に苦しんでいた。

 

 正信が引き継いだ佐倉藩も11万石に見合う年貢収入はなく、将軍家光のお気に入りだった父・正盛に贈られる贈与(賄賂)で赤字を補填している有様だった。跡継ぎの正信は平大名でしかなく、赤字補填の財源をどうするか、に悩んだであろう。

 

 転職歴6回の筆者がほとんどの会社で体験した事の一つは、「改革の掛け声」である。

 

 当社はこれから先、どうあるべきか?

 苦境を脱出する方策を考えよ!

 長期戦略を策定せよ!

 

 おのれの課題を中間管理職に丸投げして、「改革に取り組んでいる」と勘違いしているトップが多いこと。

 具体案が出そろった段階でいくつかに絞り、実行していくのが肝腎なのだが、それすらも提案した者に丸投げして終わり。

 これでは何も産まない。

 

 正信も家老や奉行、中堅藩士に改革案を上げろ、と命じたにちがいない。そして藩主就任の翌年に百姓一揆が起き、首謀者の惣五郎一家の処刑という悲劇を生んでいる。

 

 若き藩主は出鼻から躓き悪大名の汚名を被ったが、これは正信が命じたことではあるまい。百姓の不満は積もり積もった結果であり、どこの藩でも年貢は過大なレベルであった。そうした中で、若き藩主の改革という言葉に、年貢徴収役の奉行が安易に反応し、百姓を追い込んだという気がする。

 

 では、正信はどういう行動を取ったのか? 

 

 不祥事が発覚するとすべて「秘書がやったこと」にして責任を取らない今の政治家と、同じだったのか。

 あるいは「任命責任は私にある」という言葉だけで、事態収拾したと開き直ったのか?

 

 

 いずれであったにしろ、証拠はない。当時の事件、人々の考え方といった舞台環境の中で正信の奇行を追いかけてみることしかない。(続く)