どうして仏教がお葬式に関わるようになったのか① | ドット模様のくつ底

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奈良が好きなライターの瞬間ブッダな日々の記録。
福祉的な目線から心の問題を考えています。

どうしてお葬式に仏教が関わるようになったのか。

このことは
仏教史に詳しい方であれば
よくご存じのことと思われますが、

今日から数回にわたり、
このテーマに最終的には辿りつけるように
仏教の歴史を簡単に学んでおきたいと思います。


京都や奈良の観光客の集まるような大寺では
お葬式をしている様子をみたことがありませんよね。

奈良の東大寺、薬師寺、唐招提寺・・・
京都の清水寺など。

奈良朝時代にはじまった南都のお寺など、
葬式仏教とは関わりがありません。

それはこの時代の仏教の大きな役割が、
仏の大慈悲により国を護ることだったからです。

もともと仏教は葬式とは無縁なのはよくご存じかと思います。

仏教発祥の地、インドはそうであり、
中国から護国宗教として日本に導入され、
それがそのまま奈良朝時代の国造りの基本となっているので、
初期仏教の教えを継承している日本のお寺では、
葬式とは関わりがないわけですね。

その後、土地ごとの民族や風土によって寛容に教義をかえていき・・・
葬式仏教が日本に起こっていくのですが・・・

皆さんの中で
自分のご先祖様がお寺の中で眠っていらっしゃる人も多いかと思われます。

自分のお墓は自分で選択できるご時世ではありますけれども、
ご先祖様に確認もできないままに、自分の意思のみで判断して
ご先祖様のお墓を別の場所へ移動するというわけにもいかなかったり。。。

あるいは、お寺にお布施さえしていればお経をあげて頂ける環境なので、
あえてその環境を変える必要を感じていなかったり。。。

ということで、ご先祖様のお墓が
お寺に安置されている人は多いのではないかと思います。


お釈迦様のご存命のころの根本の教えというのは、
現世における心の持ち方や生活態度のこと、
修行のあり方などが中心であり、

お釈迦様が来世のことや人に魂があるのかどうかなど
形而上(けいじじょう・形をもっていないものや認識できないもの)のことは
語っていないわけですよね。

このことを仏教では「無記」(むき)とか「捨置」(しゃち)などと言われています。

お釈迦様の入滅されたあと、
「涅槃」という世界に入ったお釈迦様は一体どうなったのかを知りたいと
万人が考えるわけですが、
そのことを知りたいと思うのは自然なことだと思います。

その後、残された教団の人達が涅槃について議論しました。
ところが、そのような議論を尽くしたところで
推測の域を出るわけもなく、当然のことながら結論には辿りつけませんでした。

そこで民衆の間から
「いっそのこと、悟った人を祈った方がいいのではないか」という声が出はじめて、
お釈迦様の遺骨を納められた仏塔にお参りする人が増え、
仏塔礼拝集団として信者が組織化されたりしました。

教団内部では、
今まで通りお釈迦様の教えと戒めを守り、
修行を積んで悟りを得ようという教団の保守派「上座部」(じょうざぶ)と、

時代の変化に対応するため、戒めをゆるめて門戸を広めなくてはならないという
改革の動き「大衆部」(だいしゅぶ)が出てきます。

教団結成、約百年ののちに両派は袂を分かちました。
これを仏教では「根本分裂」と言います。

紀元元年頃、
「大衆部」から「自分の悟りより他人の救済に励むべきだ。
それは行き着くところ自分の悟りに結びつくのだ」と
いう考え方が出てきました。

ここから先述の仏教礼拝集団と結びつき
大乗仏教という新しい仏教がはじまります。


長くなりますので②に続きます。


それでは、今日も皆様が健康で幸せに過ごせますように。