「法隆寺に立ち寄った徳川家康」 | ドット模様のくつ底

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法隆寺 南大門





「法隆寺に立ち寄った徳川家康」




豊臣家と徳川家の天下を二分する激突が切迫しつつありました。


家康は、浄土宗の熱心な信者で、

日課供養として「南無阿弥陀仏」の六字の名号を書写しつつ、


「厭離穢土・欣求浄土」

(おんりえど・ごんぐじょうど)


実現を願っていたと伝わります。


慶長19年(1614)3月には、


南都興福寺の一乗院や喜多院などの


法相宗の学匠たちを駿府城に招いて、


法相宗の教義に関する問答を行わせ、それを聴聞しています。


駿府城に招かれた学匠のうち、


法隆寺の阿弥陀院の住持である実秀(じっしゅう)の姿もありました。



阿弥陀院とは法隆寺のほぼ中央に位置する子院でした。

(現在は別名の子院が建っています)

秀吉の嫡子の秀頼によって大修理をされた法隆寺。


その指揮をとった中井正清。



正清は、

大坂勢からの防御の面からも、家康の陣屋として

阿弥陀院の改築に着手していたといいます。


家康はこのとき、将軍職を秀忠に譲っていましたが、

なおも実権は掌握しており、真の天下統一を望んでいる状態でした。


家康は、

慶長19年11月15日に二条城を出発。


その日の宿所であった木津に到着したのですが、


建造物の狭さを理由に急きょ、

奈良の中坊秀政(なかのぼうひでまさ)の館に向います。


その翌日16日には早朝から雨が降る中、


正午ごろに法隆寺に向けて出発。


やがて家康は奈良から郡山を通って夢殿に到着したようです。


そこには家康の信頼を受けていた正清などが出迎えていたと思われます。


特に法隆寺は久しく兵火を免れていた霊場であり、


家康は伽藍を巡拝して太子に戦勝を祈願し、


宝物を寄進しています。


(太子に戦勝を祈願。。。)


そのころ、

大坂城の豊臣秀頼の側近たちから、


法隆寺に向けて密使が派遣されました。


「法隆寺は豊臣家の恩願に応えて

大坂方に味方せよ」


慶長5年から秀吉の菩提を弔うための

慶長の大修理の大檀越であった豊臣秀頼には


大恩があり、その決断は苦慮したこと、

また条件なども加えられ心は動かされたようですが。。。


しかし、いかなる好条件であれ、


徳川家優勢の中、豊臣家の申し出に従うことはできませんでした。


やがて徳川の軍勢は法隆寺を出発し、


正清も一族郎党三十余騎と大工1600人余を引き連れて、

家康に付き従ったといいます。


やがて豊臣家との和議が整い徳川軍が引き上げた

慶長20年4月28日に、


大坂勢一万人余(三千人とも)が、

豊臣家に加担しなかったことに対する報復として


法隆寺の西の村落を襲い放火しています。


寺僧の防御により

火が西大門から境内に入ることは防ぐことになったといいますが、


このとき正清の居宅は焼失したそうです。


この事件から正清の居宅は京都御幸町御池下るに移すことになりました。


後も、畿内の大工頭として幕府における中井家の地位は盤石なものとなり、


その伝統は明治維新まで継承されました。


正清は元和5年(1619)に近江国水口で没し、


京都長香寺へ葬られました。


また奈良における菩提寺として斑鳩町竜田の

淨慶寺があり、


中井家の墓は法隆寺北方の極楽寺墓地にもあります。



世界文化遺産 法隆寺を語る/高田 良信
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徳川家康が大坂冬の陣の際、

法隆寺を宿所にされたというお話を

長老の自坊の応接室で伺いました。


長老はその話の途中、


「家康が泊まったところは

ちょうどこの部屋あたりですよ」


とおっしゃったんですよね。


身が引き締まるような緊張感が走った凡人の私です(笑)



「東照大権現様」



長老は法隆寺の研究を続けてこられた方ですので、
上記の本はアカデミックに法隆寺が語られています。


法隆寺辞典などを編纂された方なんです。




私も頑張ります。




今日も一日、

皆様が幸せでありますように。