作家 五木寛之氏 講演レポ② | ドット模様のくつ底

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奈良が好きなライターの瞬間ブッダな日々の記録。
福祉的な目線から心の問題を考えています。

①のつづきは、


五木氏が「百寺巡礼」という著書で


全国のお寺を巡られたときの話からです。


百寺巡礼 第一巻奈良 (五木寛之 百寺巡礼)/五木 寛之
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五木氏はこの企画で

北は東北から、

南は九州まで巡礼の旅をされました。


その旅では怖い表情の仏像、

まるで今にも踊り出しそうなほど表情豊かな仏像などに出会ったそうです。


京都や奈良で出会う仏像の印象は


慈愛に満ちた端正なお顔立ちの仏像が多かったとか。


その中で、五木氏は


哀しみ、悲哀に満ちた表情の観音菩薩像がおられることに対し

疑問に思ったそうなんですね。


「仏像というのは衆生をもれなく救い、誓いを立て、

悟りを開くために、

微笑んでしかるべきなのではないだろうか」


「何故悲哀に満ちた表情なのだろう」


そこで五木氏はご住職に尋ねました。


ご住職はこう答えたそうです。



「衆生 病むがゆえに 我病む」


「仏はすべての衆生をもれなく救うもの・・・・・・」


「悲劇、嘆き、地から沸き上がってくる叫びや訴えが


蔓延している世で、


何故全ての衆生を救うことができましょうか」


「うちの仏様は出来ないことに対しての『悲の仏』と


お考え下さい」




英語では、


「慈悲」の意味を「LOVE」と訳すそうです。

(じひ)


この「慈悲」というのは中国から生まれた造語(仏教用語)で、


意味としては、

他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つことを言います。


「慈」=いつくしみ


「悲」=あわれみ


という別々の単語のクリエーションが「慈悲」なんですよね。


そしてサンスクリット語では、



「慈」=マイトリー


・本来は「友情」「友人」の意味


「悲」=カルナ


・「抜苦」「憐れみ」で原意は「うめき」


であるそうです。


(これらはキリスト教でいう「慈悲」とは異なります)


仏教では一切の生命は平等であり、怨親なく相手の幸福を願うことが

人間の目指すべき理想であると考えます。


五木氏は、


「慈」のヒューマニズムにや連帯感を感じるような親しみ深い、

生命力のある「慈」に、


「悲」のような暗い、うめきや溜息などを感じる「悲」という、

バックグラウンドがあることで「慈」が生きてくるのだと言います。


「坂の上の雲」を目指して、


戦後、焼け跡に青空があるだけの日本で、


目指すは「技術立国」「経済成長」「平和」などの

いろんな夢があり、


のちに、新幹線開通、東京オリンピック、高速道路開通、

万博開催・・・・・・と、発展をしていきました。


上を目指してきた日本人は、


「悲」に関心を持たず、


つねにプラス思考で全力疾走してきて・・・・・、


そのような志を抱いて生きてきた日本人は、


悩む、迷うといったことを心に宿すことが「不健康」と

考えられてきたと言います。


その後バブル崩壊、高度経済成長にかげりが生じて・・・・・・、


峠のてっぺんまで上がったけれど、


「雲はいつ、つかめたのか」という落胆とともに、


避けようがない少子高齢化社会を迎え、


そこからは下り坂にさしかかってきたのだと説かれます。


プラス思考で上を目指そうと考えてきたことから、


それまでは考えようとしてこなかった、


「悲」に着目してみることが大切な時代になってきているのだと


言うことなんです。



「キレイな空気を吸って育った人ほど

汚れたものに弱い」


今、世間で心の病が蔓延しているのは、


実は、とても人間らしいことなのだそうですよ。



「衆生 病むがゆえに 我病む」



さきほどの「百寺巡礼」のときの仏様のお話です。



「こんな時代に、元気なひとほど病気なんじゃないか」(笑)



TVではデジタルハイビジョンで鮮明にグロい映像を見せられて、



山の手線、中央線では頻繁に飛び込み自殺があることで、

電車が止まる。


まともに生きていると心も萎えてしまいますよね。。。


つまり、ナイーブで繊細で、心やさしい人ほど、


心が病んでしまってしかるべき時代と言うことなんです。


ここで、五木氏からこんな素敵なメッセージがありました。



「鬱の人ほど菩薩の心の持ち主」!!


何だかこの言葉に元気が出そう(笑)



長くなりますので③に続きます。


ここまで読んで頂きまして

ありがとうございました。