法隆寺の世界遺産登録 | ドット模様のくつ底

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法隆寺は平成5年(1993)に
日本ではじめて姫路城とともに
世界文化遺産に登録されました。

登録された理由として

法隆寺地域の建造物群は、


基準の


*芸術的傑作

*建築などに大影響

*儀式、景観の見本

*出来事、伝統、思想、信仰など


これらに該当すると評価され、


また、オ―センティシティ(真正性+信頼性=確かさ)も

合格したそうです。


(伊藤延男氏 元東京国立文化財研究所長のレジュメより)


登録された当時、

法隆寺は特に祝賀会や宣伝などをしようと考えていなかったそうですが、

ともに世界遺産になった姫路城の方は盛大に宣伝や祝賀会、

記念講演などを行う予定であったようです。


ここで文化庁から宣伝などを共にされてはどうかとの助言がありました。


世界遺産になったところで、

財政的に宣伝をするような余裕がなかった法隆寺でしたが、


姫路市長の提案によるご厚意があり、

世界遺産のポスターを一緒に作って頂けることになったそうです。


二つの世界遺産のポスターを制作したのは姫路市だったんですね。


(法隆寺 高田良信長老談)


金堂



五重塔


中門




法隆寺について

よく伝えられていることは、


推古十五年(607)に推古天皇と聖徳太子が

用明天皇の遺願を実現するために創建したということと、


『日本書紀』に、

天智九年(670)法隆寺が全焼したと記されていることです。


この時期にはすでに聖徳太子の一族は滅亡していて

有力なスポンサーとなる人物すらいなくなりました。


その後の再建については、


太子が施入していた領地の人々や信仰者による協力を中心に着手され、

朝廷の援助も受けることになり、


『七大寺年表』に

「和銅元年 戊申(708)・・・・・・法隆寺作る」と記載されてある通り、


法隆寺は再建されていきます。


そして平城遷都の行われた和銅三年(710)ごろにほぼ完成、


和銅四年(711)に五重塔内の塑像群や

中門の金剛力士像(仁王像とも)が造られたことで


現在の伽藍のような法隆寺の姿となったそうです。


中門の金剛力士像は

日本最古の像と伝えられています。