聖徳太子 十七条憲法 第七条と第八条 | ドット模様のくつ底

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第七条


〈原文〉


七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。 者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷勿危。故古聖王。為官以求人。為人不求官。




〈読み下し文〉


七に曰く、人おのおの任あり。掌(つかさど)ること、濫(みだれ)ざるべし。それ賢哲、官に任ずるときは、頌(ほ)むる音(こえ)すなわち起こり、?者(かんじゃ)、官を有(たも)つときは、禍乱すなわち繁し。世に、生まれながら知るひと少なし。よく念(おも)いて聖(せい)となる。事、大小となく、人を得てかならず治まる。時、急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これによりて、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危うからず、故に、古の聖王、官のために人を求む。人のために官を求めず。




〈現代語訳〉


人にはおのおのその任務がある。職務に関して乱脈にならないようにせよ。懸命な人格者が官にあるときは、ほめる声が起こり、よこしまな者が官にあるときには、災禍や乱れがしばしば起こるものである。世の中には、生まれながらにして聡明な者は少ない。よく道理に心がけるならば、聖者のようになる。およそ、ことがらの大小にかかわらず、適任者を得たならば、世の中はかならず治まるものである。時代の動きが激しいときでも、ゆるやかなときでも、賢明な人を用いることができたならば、世の中はおのずとゆたかにのびのびとなってくる。これによって国家は永久に栄え、危うくなることはない。ゆえに、いにしえの聖王は官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けることはしなかったのである。




〈原文)


八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡 。終日難盡。是以遅朝。不逮于急。早退必事不盡。




〈読み下し文〉


八に曰く、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。公事?(いとま)なし。終日(ひねもす)にも尽くしがたし。ここをもって、遅く朝(まい)るときは急なることに逮(およ)ばず。早く退(まか)るときはかならず事尽くさず。




〈現代語訳〉


もろもろの官吏は、朝早く役所に出勤し、夕は遅く退出せよ。公の仕事は、うっかりしている暇がない。終日つとめてもなし終えがたいものである。したがって、遅く出仕したのでは緊急の事に間に合わないし、また退出したのでは、必ず十分になしとげないことになるのである。




【『聖徳太子 法華義疏(抄) 十七条憲法』 瀧籐尊教訳 中央クラシックス より引用】


*原文の一部に変換できない漢字あり




亀井勝一郎さんの『大和古寺風物誌』という名著があります。




その中で、亀井さんは、




「十七条憲法は為政のための律法でもなく、単なる道徳訓でもない。それらの意味を含めてはいるが、


むしろ、太子自身の率直な祈りの言葉であった。そうしたことが『日本書紀』から読み取れる」


という一文を記されています。




【『迷いを去る百八の智慧』 薬師寺管主山田法胤著 講談社 より引用】




現代社会の人間が起こしている根本的な問題は、当時と変わっていないことがわかります。




某学者による聖徳太子の人となり分析では、『理想に生きる仏教政治家』という見方を


当時の人にされていたのではないかということです。


確かにそう言われたら、若くして政治から退いて以降は、平等思想である仏教を広める活動に尽くされました。


そしてお寺をたくさん建立されました。




政治に限界を感じたのでしょうか。平等思想は理想社会なだけで現実には難しい。


潔さもおありだったのでしょうね。




仏教は今もなお、私たちの時代に哲学として息づいています。