聖徳太子 十七条憲法 第九条と第十条 | ドット模様のくつ底

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福祉的な目線から心の問題を考えています。

今日は久ぶりに十七条憲法を転載したいと思います。


ご紹介させて頂くものは、


和宗総本山四天王寺第105世管長


瀧籐尊教猊下の訳されたものです。




「僧力結集」では十七条憲法の第一条と第二条を


法隆寺の古谷正覚執事長のインタビューページにて


掲載させて頂いたのですが、


そのときお世話になった本からの転載になります。




(原文)


九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。


群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。




(読み下し文)


九に曰く、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。


それ善悪成敗はかならず信にあり。


群臣ともに信あるときは、何事かならざらん。


群臣信なきときは、万事ことごとくに敗れん。




(現代語訳)


まこと(信)は人の道(義)の根本である。何ごとをなすにあたっても、


まごころをもってすべきである。


善いことも悪いことも、成功するのも失敗するのも、


かならずこのまごころがあるかどうかにかかっているのである。


人びとがたがいにまごころをもって事にあたったならば、


どんなことでも成しとげられないことはない。


これに反して人びとにまごころがなければ、


あらゆることがらがみな失敗してしまうであろう。






(原文)


十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。


彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。


共是凡夫耳。是非之理能可定。相共賢愚。如鐶无端。


是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。




(読み下し文)


十に曰く、こころのいかり(忿)を絶ち、おもてのいかり(瞋)を棄てて、


人の違うことを是とすれば、かれは非とす。


われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。


ともにこれ凡夫のみ。是非の理、?(たれ)かよく定むべけんや。


あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし。


ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、


かえってわが失(あやまち)を恐れよ。


われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく拳(おこな)え。




(現代語訳)


心の中で恨みに思うな。目を角に立てて怒るな。


他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。


人にはみなそれぞれ思うところがあり、


その心は自分のことを正しいと考える執着がある。


他人が正しいと考えることを自分は間違っていると考え、


自分が正しいと考えることを他人は間違っていると考える。


しかし自分がかならずしも聖人なのではなく、


また他人がかならずしも愚者なのでもない。


両方ともに凡夫にすぎないのである。


正しいとか、まちがっているとかいう道理を、


どうして定められようか。


おたがい賢者であったり愚者であったりすることは、


ちょうどみみがね(鐶)のどこが初めでどこが終りだか、


端のないようなものである。


それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、


むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省せよ。


また自分の考えが道理にあっていると思っても、


多くの人びとの意見を尊重して同じように行動せよ。




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