聖徳太子 十七条憲法 第五条 第六条
*第五条
五曰。絶餮棄欲。明辯訴訟。其百姓之訴。一日千事。一日尚尓。况乎累歳須治訟者。得利為常。見賄聴 。便有財之訟如石投水。乏者之訴似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。
〈読み下し文〉
五に曰く、あじわいのむさぼりを断ち、たからのほしみ(欲)を棄てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(さだ)めよ。
それ百姓の訴(うったえ)は、一日千事あり。一日すらなお爾(しか)るを、いわんや歳を累(かさ)ねてをや。
ごのごろ訴を治むる者、利を得るを常とし、賄(まかな)いを見てはことわりをもうす〈?〉を聴く。すなわち財あるものの
訴は、石をもっと水に投ぐるがごとし。乏しきものの訴は、水をもって石に投ぐるに似たり。
ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知らず。臣道またここに闕(か)く。
〈現代語訳〉
役人たちは飲み食いの貪りをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。人民のなす訴えは、一日に千件にも及ぶほど多くあるものである。一日でさえそうであるのに、まして一年二年なりと、年を重ねてゆくならば、その数は測り知れないほど多くなる。このごろのありさまを見ると、訴訟を取り扱う役人たちは私利私欲を図るのがあたりまえとなって、賄賂を取って当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。だから財産のある人の訴えは、石に水の中に投げ入れるようにたやすく目的を達成し、反対に貧乏な人の訴えは水を石に投げかけるように、とても聴き入れなれない。こういうわけであるから、貧乏人は、何をたよりにしてよいか、さっぱりわからなくなってしまう。こんなことでは、君に仕える官吏たる者の道が欠けてくるのである。
*第六条
六曰。懲悪勧善。古之良典。是以无匿人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。无仁於民。是大乱之本也。
〈読み下し文)
六に曰く、悪を懲(こ)らし善を勧むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり、ここをもって、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、国家を覆(くつがえ)す利器なり。
人民の絶(た)つ鋒剣(ほうけん)なり。また佞(かだ)み媚ぶる者は、上に対しては好みて下の過(あやまち)を説き、
下に逢いては上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それ、これらの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。
〈現代語訳〉
悪を懲らし善を勧めるということは、昔から良いしきたりである。だから他人のなした善は、これをかくさないで顕(あら)わし、また他人が悪をなしたのを見れば、かならずそれをやめさせて、正しくしてやれ。諂(へつら)ったり詐(いつわ)ったりする者は、国家を覆し亡ぼす鋭利な武器であり、人民を絶ち切る鋭い刃のある剣である。またおもねり媚びる者は、上の人びとに対して好んで目下の人びとの過失を告げ口し、また部下の人びとに出会うと上役の過失をそしるのが常である。このような人は、みな主君に対しては忠心なく、人民にたいしては仁徳がない。これは世の中が大いに乱れる根本なのである。
(参考文献:聖徳太子 法華義疏(抄) 十七条憲法 瀧藤尊教訳 中央クラシックス)
十七条憲法の十七という数字は天地和合を説く陰陽道でいうと
8+9
陰の最高数(八)と陽の最高数(九)を組み合わせた数であるそうです。
その陰陽の間に、
「人が守ってくれさえすれば、必ず幸せになるということを法律にしよう」
という祈りが込められていたということなのだとか。
(参考資料:迷いを去る百八の智慧 薬師寺管主山田法胤著 講談社)