いま佐賀県の吉野ケ里遺跡に熱い視線が注がれています。
弥生時代後期の有力者の墓であろうと推定されていた墓から石の蓋が取り除かれ、赤色顔料の痕跡が見つかりました。
あと一週間ほどで棺の中の土も取り除かれるようですから、何が出土するのかとても楽しみなところです。
今回のマスコミ報道を見ていて、吉野ケ里遺跡を邪馬台国と直接結びつけたり、見つかった墓を「卑弥呼の墓か!?」と煽るような論調は少ないように思います。「弥生時代後期の有力者の墓」という極めて穏当なものになっていると思います。
それが、これまでの過激な報道への反省なのか、それとも今や有力説となってしまった邪馬台国纒向説への忖度なのかはわかりませんが、良い傾向だと言えるのではないでしょうか。
この墓が卑弥呼の墓であるかどうかは、これが卑弥呼の墓であるという墓誌か、あるいは親魏倭王の金印でも出土しなければ特定できません(個人的には、景初二年銘の何か特別な細工の施された銅鏡が出れば物証になるかなと思っていますが)。残念ながら、邪馬台国論争においてはそれが考古学の限界だと思います。
さて、ですが、明日かもしれませんし、明後日かもしれませんし、来週かもしれませんが、何か貴重な副葬品などが出土すれば、また邪馬台国吉野ケ里説の一大ブームが巻き起こる可能性は否定できません。
1980年代にセンセーショナルに登場しながら、2009年の纒向発表によって「邪馬台国最有力候補地」の看板を奪われた、吉野ケ里の逆襲ということで盛り上がるのは間違いないでしょうから、マスコミも手ぐすねを引いて待ち構えていると思います。
ただ、その前にしっかり再確認しておかなければならないのは、「邪馬台国は文献上の存在である!」ということです。
最近のマスコミ報道では、ほぼ邪馬台国への行程論は省略されています。
しかし、現代の私たちが「3世紀の日本に卑弥呼を王とする国があり、その都が邪馬台国にあった」ということを知っているのは、中国の史書『三国志』魏志倭人伝があったからです。
魏志倭人伝が書いてくれていなければ、私たちはそういうことを知りようがなかったのです。
そして、魏志倭人伝には邪馬台国への行程も書かれています。ですから、本来、その行程をたどっていけば邪馬台国に到着できるはずなのです。
しかし、その行程記事の一部があいまいなものになっています。具体的には、不彌国から投馬国を経て邪馬台国に至る行程が日数で書かれていることです。それで、その解釈をめぐって江戸時代以来、邪馬台国論争が繰り広げられてきたというわけです。
最近は、考古学的な成果にばかり目が向いているように見えますが、「行程記事の解釈が行き着かないところに邪馬台国は存在しない」ということを心に銘じておくべきだと思うのです。
どこで、大きな宮殿跡が見つかろうと、女王の墓が見つかろうとも、行程が行き着かない地点であれば、それは名もなき国の痕跡に過ぎないと言えるのです。
いま、多くの人の目が邪馬台国に向けられている時だからこそ、邪馬台国論争の原点である魏志倭人伝にスポットライトが当たってほしいと思います。
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序 章 「魏志倭人伝」とは
第一章 行程記事を読む(一)帯方郡~伊都国
第二章 行程記事を読む(二)伊都国~邪馬台国
第三章 倭の習俗・産物記事を読む
第四章 女王国の統治体制・周辺国記事を読む
第五章 魏との交渉史記事を読む
第六章 論争の原点〈水行二十日〉〈水行十日陸行一月〉を考える
第七章 邪馬台国への一三〇〇里
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