日本武尊(下):後日談〜白鳥の飛行ルートの示すもの~/原日本紀の年代記〈12〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

古代日本の伝説的人気ヒーローであるヤマトタケルを復元しています。今回は、日本武尊が崩御された後の関連記事を見ていきます。

*「原日本紀の年代記」は本ブログで独自に紀年復元した年代観にもとづいています。

 

日本武尊=誉津別命(ほむつわけのみこと)

*原日本紀仮説にもとづく考察により、ふたりの同一人物説を採用しました。書紀は前半生を誉津別命、後半生を日本武尊として描いていると考えます。

 

白鳥陵(軽里大塚古墳)大阪府羽曳野市

全長約190メートル、三段築成の前方後円墳。

宮内庁から日本武尊の陵に治定されていますが、築造は5世紀後半と推定されていますから、日本武尊の崩御から100年以上も後の築造となり年代が一致しません。

ちなみにですが、私はもし安康天皇(475年崩御と推定しています)の陵が古市古墳群にあるのなら、この陵ではないかと考えています。

 

【357年:景行43年:崩御】

景行天皇は日本武尊の崩御を知って昼夜むせび泣き、大変悲しまれた。そして、群卿に詔して、百寮(つかさつかさ)に命じて伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬られた。

そのとき、日本武尊は白鳥となり、陵から出て倭国(やまとのくに)を目指して飛んでいく。棺には衣だけが残っていて遺体は消えていた。

使者がその白鳥を追っていくと、倭の琴弾原(ことひきのはら)にとどまった。そこで、そこにも陵を造った。

白鳥は再び飛んで河内にいたり、旧市邑(ふるいちのむら)にとどまった。またそこにも陵を造った。時の人はこの3つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と名付けた。

しかし、白鳥はそこからついに高く飛んで天に上ってしまった。

*この3つの陵は白鳥三陵と言われています。能褒野陵は三重県亀山市、琴弾原陵は奈良県御所市、旧市の陵(白鳥陵)は大阪府羽曳野市にあります。

なぜ亀山市から大和を目指して飛んでいった白鳥が、景行天皇の纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)のあった奈良県桜井市を越えて御所市に着いたのでしょうか。

私はこの白鳥の記事こそが誉津別命(ほむつわけのみこと)と日本武尊をつなぐ鍵だと考えています。357年に30歳で崩御された日本武尊の誕生年は328年ということになります。私の復元紀年では、328年は垂仁天皇23年となり、そこでは「30歳になっても話すことのできなかった誉津別命が、垂仁天皇とともに大殿(纒向珠城宮か?)におられた時に、空を飛んでいく白鳥を見て『あれは何か?』と言葉を発し、天湯河板挙(あめのゆかわたな)という家臣が出雲(異説として但馬国を併記)でその白鳥を捕らえて献上しすると誉津別命が話すことができるようなった」という説話が語られています。

日本武尊と誉津別命が「328年」という年に、「白鳥」「30歳」というキーワードで重なり合うのです。あまりにも奇妙な一致であり、私には『原日本紀』段階で一人の人物であった人が、紀年延長操作にあたって二人の人物に分けられたとしか考えられませんでした。

そう考えれば、この白鳥の飛行ルートも納得がいきます。すなわち、白鳥は纒向日代宮と同様桜井市にあった垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)の上を飛ばなければならなかったのです。垂仁天皇と誉津別命がその白鳥を目にするためにです。

そして、さらに御所市から羽曳野市を目指して飛んだ白鳥のルートを延ばせば、広い意味での出雲や異説に語られる但馬国があるのです。

このように、日本武尊の白鳥説話と誉津別命の白鳥説話は整合性がとれており、二人の同一人物説をほのめかすように配置されているのです。

 

【358年:景行51年】

日本武尊が身に付けていた草薙剣は、いま尾張国の年魚市郡(あゆちのこおり)の熱田神宮にある。

日本武尊が伊勢神宮に献上した蝦夷たちは昼夜騒がしくして、出入りにも礼儀がなかった。倭姫命は「この蝦夷たちを神宮に近づけてはいけない」と言われ、朝廷に進上された。御諸山(三輪山)のほとりに置かれたが、時を経ずして三輪山の木を伐(き)ったり、里に向かった叫んで民を脅かした。それを聞かれた天皇は、「蝦夷たちは中国(うちつくに)に住ませ難い。本人の希望に応じて、邦畿之外(とつくに)(畿外)に住まわせよ」と言われた。これが、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波など5つの国の佐伯部の先祖である。

これより先、日本武尊は両道入姫皇女(ふたじのいりびめのひめみこ)を妃とし、稲依別王(いなよりわけのみこ)を生む。次に足仲彦天皇(たらしなかつひこ)(仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)を生む。稲依別王は犬上君(いぬかみのきみ)と武部君(たけるべのきみ)二族の先祖である。吉備武彦の女吉備穴戸武媛(きびあなこのたけひめ)は妃として武卵王(たけかいごのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)を生む。武卵王は讃岐綾君の先祖である。十城別王は伊予別君の先祖である。穂積氏忍山宿禰(おしやまのすくね)の女の弟橘媛は稚武彦王(わかたけひこのきみ)を生む。

*日本武尊崩御の翌年にも、稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)(後の成務天皇)の立太子や武内宿禰(たけのうちのすくね)の大臣任命に続けて、日本武尊関連の記述があります。

妃や子に関する系譜の記事が崩御後に記されているのも謎です。

 

【359年:景行52年】

5月4日、皇后の播磨太郎姫(はりまのおおいらつめ)が薨去された。

7月7日、八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)を皇后とする。

*ここで薨去された皇后の播磨太郎姫(原文で「太」という字になっています)ですが、景行天皇の治世2年に「播磨稲日大郎姫を皇后とされ、大碓皇子(おおうすのみこ)と小碓皇子(おうすのみこ)(後の日本武尊)を生んだ」と記されるだけで、次に登場するのがこの50年後とされる薨去の記事です。

そして、そのわずか2か月後には八坂入媛命が皇后となります。

この八坂入媛命は景行4年に妃となる経緯も詳しく語られています。また他の妃である水歯郎媛(みずはのいらつめ)、五十河媛(いかわひめ)、高田媛(たかたひめ)、日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)、襲武媛(そのたけひめ)については、なぜか播磨稲日大郎姫の記事ではなく八坂入媛命の記事に続けて列挙されています。

日本武尊の崩御、稚足彦尊の立太子と前後して、兄大碓皇子の美濃の国への任命という日本書紀からの退場(景行40年=356年)や播磨太郎姫の薨去が語られるのはやはり不思議な感じがしてしまいます。実際は景行天皇の弟であった日本武尊を、景行天皇の子とするためだけに造作されたのではないか、実は最初から皇后は八坂入媛命だったのではないかと考えるのは、勘ぐり過ぎでしょうか。

 

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(参考文献)

坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波文庫

宇治谷孟著『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫

 

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