原日本紀の復元069 『日本書紀』が記す神代の事実〈7〉大己貴神の国譲り | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 『日本書紀』第一巻を概観したまま、昨年夏で途切れてしまっていた『日本書紀』の神代の事実を見ていくシリーズを完結させておきたいと思います。『日本書紀「神代」の真実』の内容とかなりダブりますが、『日本書紀』の第二巻め「神代下(かみのよのしものまき)」の本文をみていきます。

 

 天照大神(あまてらすおおみかみ)の子である正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘である栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)をめとって、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を生まれます。

 高皇産霊尊はこの孫を可愛がり、葦原中国(あしはらのなかつくに)の主(きみ)にしたいと考えられます。しかし、葦原中国には蛍火のように輝く神や蠅のように騒々しいよくない神々がいました。そこで、神々を召集して、「葦原中国を平定しようと思うが、誰を遣わしたらよいだろう」と聞かれます。

 

 まず、最初に名前があがったのは天穂日命(あまのほひのみこと)です。そこで天穂日命を送り込みますが、天穂日命は大己貴神(おおあなむちのかみ)におもねって、3年経っても帰ってきませんでした。続けて、その子の大背飯三熊之大人(おおせびみくまのうし)を遣わしますが、この神もまた父におもねって何も報告をしてきませんでした。

 

 次に遣わされたのが天国玉(あまつくにたま)の子の天稚彦(あめのわかひこ)です。天鹿児弓(あまのかごゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を授けられて遣わされます。しかし、この神も大己貴神の娘の下照姫(したてるひめ)を妻として「私も葦原中国を治めようと思う」といって復命しませんでした。

 そこで、高皇産霊尊は無名雉(ななしきぎし)に様子を見にいかせますが、天稚彦は天鹿児弓と天羽羽矢で雉を射殺してしまいます。不思議なことに、その矢は雉の胸を通って高皇産霊尊の元に至ります。それで、その矢を取って投げ下ろされると、飛んで天稚彦の胸に当たり、天稚彦は死んでしまったという説話が挿入されています。また、ここでは天稚彦が葦原中国にいたときの朋友として味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)が登場しています。

 

 さて、改めて神々が集って、次に葦原中国に遣わすべき者として選んだのが経津主神(ふつぬしのかみ)で、それに同行することになるのが武甕槌神(たけみかづちのかみ)です

 この二柱の神は、出雲の国の五十田狭(いたさ)の小汀(おはま)に降りられて、十握剣(とつかのつるぎ)を倒(さかしま)に地面に突き刺して、その剣先に座って、大己貴神に国を譲るように迫ります。

 大己貴神は、子の事代主神(ことしろぬしのかみ)に相談すると答えます。その時、事代主神は出雲の三穂の碕におられたので、使いをやって高皇産霊尊の勅(みことのり)を伝えます。

 すると、事代主神は「天神の勅に父は従うべきです。私もまた従います」と言って、海中に去ってしまわれます。

 

 その報告を聞いた大己貴神は、「わが子は既に去ってしまった。私も去りましょう」と言われ、国を平定した時に用いた矛(ほこ)を二柱の神に奉って「天孫がこの矛を用いて国を治められたら、必ず平安になるでしょう」と告げて、ついに隠れてしまわれます。これにより、大己貴神の国譲りは完結します。

 このように『日本書紀』神代の本文は、あっけないほど簡潔に、淡々と国譲りの経緯を記しています。

 国譲りの説話に登場する神々を系図に書き加えます(図表1)。

 

■図表1 神代の系譜

 

 この国譲りの説話ですが、「葦原中国」の国譲りなのか、それとも「出雲国」の国譲りなのか、その舞台がとてもあいまいな記述となっています。

 

 まず、物語は高皇産霊尊が「葦原中国」を平定しようと考えられるところから始まります。天穂日命・武三熊之大人親子が遣わされた先は明記されていませんが、文脈から考えると「葦原中国」で間違いないでしょう。しかし、その地を治めている神は大己貴神です。大己貴神は素戔嗚尊の子で、八岐大蛇の説話からすると明らかに「出雲国」におられる神です。

 次の天稚彦が下照姫と留まったのは「葦原中国」と明記されています。

 経津主神と武甕槌神が向かったのも「葦原中国」ですが、到着されるのは「出雲国」の五十田狭の小汀です。そこにいらっしゃるのは大己貴神であり、その子の事代主神も「出雲国」におられます。

 

 これらの記述から想起されるのは、「葦原中国」の中に「出雲国」があるというイメージでしょうか。そして、「出雲国」におられる大己貴神と事代主神が、「葦原中国」を治めているという風に読み取れます。

 しかし、後段、国譲りの後に瓊瓊杵尊が降臨されるのは「日向(ひむか)」です。『日本書紀』編纂当時、「日向」といえば現在の宮崎県を中心とした地域であることは明白です。それを考えると、明らかに矛盾する設定であるといえます。

 それに、高皇産霊尊が平らげようとされた「葦原中国」は、よくない神(原文では「邪鬼」となっています)がうごめく混とんとした地のように書かれています。大己貴神や事代主神は、そのよくない神のイメージではありませんし、しっかりとした国の統治者として描かれているので、ここでも矛盾が見られます。

 

 また、『古事記』との比較においては、『日本書紀』で国譲りを主導する高皇産霊尊が、『古事記』では天照大神となっています。『日本書紀』には、国譲りに最後まで抵抗し科野国(しなののくに)まで逃げる建御名方神(たけみなかたのかみ)も登場しませんし、大国主神(大己貴神のこと)が国譲りの条件として出雲大社の根源とされている立派な宮殿の築造を求める話もありません。さらに、『古事記』が多くを語る、因幡の白ウサギをはじめとする大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)(大国主神の別名)の求婚にまつわる幾多の困難に関する説話は、『日本書紀』にはまったく書かれていません。

 このように、『日本書紀』の「出雲国」に対する扱いは、『古事記』とは大きく異なっています。(つづく)

 

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(参考文献)

坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波文庫

宇治谷孟著『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫

中村啓信訳注『新版古事記』角川ソフィア文庫

 

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