景初四年銘鏡から卑弥呼の遣使年を考えると・・・ | 邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 前々回の記事で丹波の千歳車塚古墳について書いた流れで、手元にあった今城塚古代歴史館平成30年春季特別展の図録『古代の日本海文化―太邇波(たにわ)の古墳時代―』を開いていました。

 そこに、広峯(ひろみね)15号墳から出土した景初四年銘盤龍鏡(けいしょよねんめいばんりゅうきょう)が大きく載っていたので「景初四年」に思いが飛びました。

 

【景初四年銘盤龍鏡】上記『古代の日本海文化―太邇波の古墳時代―』より転載

 

【部分拡大図】「景初四年五月」の文字が読めます

 

 広峯15号墳は京都府福知山市にある全長40メートル、由良川流域で最初の前方後円墳です。古墳時代前期末(同書古墳編年図では300年代後葉に位置付けられています)の築造と考えられているようです。景初四年銘盤龍鏡の他に鉄剣、鉄斧、ヤリガンナ、管玉が副葬されていました。

 

 やはり「景初四年」と聞いて気になるのは、ご存知の方も多いと思いますが、魏の元号である景初は3年までしかなく、4年は存在しなかったのになぜ?ということです。

 元号と西暦との対比では以下のようになります。

 

明帝(曹叡) 景初元年 237年

       景初2年 238年

       景初3年 239年 1月に明帝崩御 → 少帝8歳で即位

少帝(曹芳) 正始元年 240年

 

 このように、景初4年はありえない年号なのです。

 では、この存在しない年号である「景初四年」が記された鏡は、いつ、どこで製造されたのでしょうか。

 

 製造年については、240年の可能性が高いと思います。後年に架空の年号の入った鏡を製造する蓋然性が見いだせないからです。明帝の崩御と改元を知らなかった工人が240年に作ったと考えるのが妥当だと思います。もちろん、後年、踏み返し鏡(原盤をもとにコピーした鏡)が製作された可能性はあるでしょうが、原盤は240年の製作と考えてよいのではないでしょうか。

 

 製造場所は、おそらく日本(女王国)だと思われます。中国の魏において、明帝の崩御を知らずに240年に景初四年の鏡を制作することは想定できません。240年には新皇帝の元号である「正始」に改元されていることを知らない者はいなかったはずだからです。

 

 そう考えると、景初四年銘鏡は女王国内で、明帝崩御の情報を知らなかった工人(および鏡作り集団)が製作したということになります。当時の女王国内で誰でもが勝手に鏡を製作・所持できなかったと思われますから、製作集団は王権・政権の管理下ないしそれに近い情況に置かれていたと思われます。すると、少なくとも240年5月(銘文に5月と明記されています)時点で、製作集団にまで情報が伝わっていなかったということになります。

 

 一方で、女王国の卑弥呼が景初2年(238年)か景初3年(239年)に、難升米(なしめ)らを魏に送って朝貢したことが倭人伝に記されています。その年の12月に皇帝から卑弥呼へ「親魏倭王」の称号が授けられたという有名な記事です。

 私は以前の記事で書いたように景初2年が正しいと考えていますが、この「二年か三年か」という問題はいまだに決着していません。

 

 その遣使朝貢年について、「景初四年銘鏡が女王国で240年に製作された」という想定に立てばどんなことが考えられるでしょうか。

 二年説の立場からだと、次のようなストーリーが想起されます。

 

景初二年(238年)12月

   難升米らが洛陽で明帝に謁見

   卑弥呼を「親魏倭王」に制詔

   難升米一行は下賜品を携えて帰路につく

景初三年(239年)1月

   明帝が崩御し、少帝が皇位を継ぐ

景初三年(239年)春~夏

   難升米らが対馬海峡を渡って帰還

正始元年(240年)春~

   魏の使者、帯方郡使の梯儁(ていしゅん)一行が対馬海峡を渡って来倭

   卑弥呼に謁見し金印紫綬や下賜品を渡す

 

 難升米らが明帝の崩御を知らずに帰路についたとすれば、倭の女王国、卑弥呼のもとに「明帝崩御」「正始への改元」の公式な報がもたらされるのは、喪があけた正始元年にやってくる梯儁たちによってだということになります。その時期が6月以降であったなら、240年5月に鏡作り集団の工人が「景初四年銘鏡」を製作したとしても不思議ではありません。

 例えば、難升米たちが「景初二年(238年)」銘の鏡を下賜されて239年に帰還したとすると、魏の元号は「景初」であることは明らかとなり、女王国内において239年に「景初三年銘鏡」を作り、続く240年に「景初四年銘鏡」を作ることに必然性が見いだせます。実際、「景初三年銘鏡」は製作されていて、島根県の神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)から出土しています。

 

 というように、うまく仮説が組み立てられるのですが、卑弥呼の遣使が景初三年(239年)だという説がまったく否定できるわけではありません。

 景初三年説だと、239年12月に難升米らが少帝に謁見するわけですが、一行は240年の6月以降に梯儁たちと一緒に帰還したと仮定すると、「景初四年銘鏡」の製作可能性は残ります。景初という元号の認識など、問題はあると思いますが、一概に否定はできないのです。

 

 ただ、決定的なものではありませんが、「景初四年銘鏡」の存在からも卑弥呼の遣使は「景初二年」説の方がしっくりくるように思いますが、いかがでしょうか。

 

****************************

去る11月30日の朝日新聞一面に『日本書紀「神代」の真実』の広告を掲載していただきました。おかげで、結構長い間アマゾンでベストセラーマークがついていてとてもうれしい思いをしました。おまけに、拙著広告のすぐ上には競馬の三冠馬3頭が激突してアーモンドアイが勝利した世紀の一戦ジャパンカップの記事が載っていました。一時競馬に熱をあげていた私としては偶然とはいえ感激です。新聞は大切に保存しておくつもりです。

 

【11月30日朝日新聞第一面】

 

 

YouTube【古代史新説チャンネル「邪馬台国と日本書紀の界隈」】

続々配信中です。ぜひご視聴ください。

 

【邪馬台国の界隈005】

倭人伝の新解釈〈5〉地図で解ける!伊都国への「東南陸行」の謎

 ↓  ↓  ↓

 

 

【日本書紀の界隈004】

日本書紀は天武天皇の命じた「後世に伝える正しい歴史」なのか?

 ↓  ↓  ↓

 

 

 

お読みいただきありがとうございます。よろしければクリックお願いします。

 

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ   
にほんブログ村   古代史ランキング

 

 

*****

【ヤマト王権前夜】日本で何が起こっていたのか!?重版好評発売中!

 

 

 

*****

【邪馬台国】新しい視点から読み解けば熊本に!

 

 

 

*****

【ヤマト王権】初代天皇の即位年は西暦301年!