縁を結ぶ活動 | 邪馬台国の道標(みちしるべ)

邪馬台国の道標(みちしるべ)

邪馬台国とお出かけ日記を交え、楽しめるブログ更新中。

世の中では色々な事件が起こり、悲喜こもごもの毎日ですが、それでも必ず春は巡ってきます。

昨日は、桜の開花予想が発表されましたね。

そして、明日にはあの痛ましい震災と津波から早くも11年目の春が巡って来ようとしています。

しかし、被災された人々の記憶には、依然として癒えない悲しみが横たわっているのかも知れません。

 

人の一生は、良くも悪くも縁(えん・えにし)に左右され、縁には自らの行動に由来する因果と、突然の災難など自らではどうすることもできない巡り合わせ(運)とがあります。

後者は本人の努力ではどうにもならないことですが、前者は対処の仕方で自らが良い方向に導くことができます。

今回は、自らに訪れた縁の理由(天命)を悟り、自らが対処できる縁を良い結果に結びつけるための縁を結ぶ活動についてお話したいと思います。

 

縁は自分の周りに張り巡らせた円に訪れる事象と関わりを持つことで生まれる相互作用であるというお話をしました。

では、そこで生まれる縁を慈悲を以て積極的に結ぶ活動を推進するには、どうすればいいのでしょう?

 

 

これまでは、宗教がその一旦を担って、キリスト教やイスラム教のように唯一神の教えに身を委ねることで、人々は救われると考えられて来ました。

いずれ終末が訪れるので、その時までに、欲を禁じ身を清く保たなければならないとされていました。

しかし、終末とは禁欲を促すための教えであって、それとは無関係に災いは訪れ、多くの清く誠実な民も巻き添えを食ってきたのです。

確かに、このような教えは、民衆を誠実な民となるよう教育して、集団を統治して、生産性が上がり人口増加していく人類が集団で生きて行くためには都合のよいものだったのです。

 

しかし、今日、信心深い誠実な民とは裏腹に、そこから逸脱した一握りの民によって、国家活動や経済活動が牛耳られて、富の源泉がそこへ集中するようになっているのです。

自然にも薬と毒があるように、人間は本来いわゆる善も悪も持ち合わせた存在であり、先に述べたように様々な個性を持った存在です。

宇宙は138億年前にビッグバンで誕生し、現在も常に膨脹しているとされています。

そして、神を宇宙意思とするならば、神も成長し続けている存在ということになり、全ての存在が無常(諸行無常)なのです。

したがって、神も含めて、唯一神のように全知全能で常に絶対的存在と考えるには無理があるように思われます。

神はむしろキリスト教やイスラム教以前の神話に登場する原始的神々や神道・仏教の神々のように、善も悪も含め人間臭い多彩な個性を持った存在で、我々と共に成長していく存在と捉えるべきと考えます。

しかし、身体と共に我々の中に神と同じような魂が宿るとするならば、それは仏教の輪廻転生により、身体が朽ちてもまた新しい命として生まれ変わるとすると、その人の業が次の命の魂のレベルに影響するかも知れません。

 

 

つまり、人生は智慧を磨き、我々の中の魂(神)を高めるための円運動の場に他ならないということです。

自らを高め、慈悲によって、縁を結び、他者に智慧を施すとともに、自らも智慧を得て成長するという円運動を繰り返すことが大事だと思われます。

智慧とは、仏教由来の言葉で、辞書によると、以下のような定義がなされています。

①正しく物事を認識し判断する能力で、これによって執着や愛憎などの煩悩を消滅させることができる。

②事の道理や筋道をわきまえ、正しく判断する心のはたらき。

③単なる学問的知識や頭の良さではなく、人生経験や人格の完成を俟まって初めて得られる、人生の目的・物事の根本の相にかかわる深い知識。

 

つまり、人の言うことや社会に氾濫する情報を鵜呑みにせず、客観的立場で執着や愛憎などの煩悩を取り除き、自らの経験や書物などから得た見識と、自分が遭遇した真の理由や目的などを考え合わせながら、本質を見極めるという活動を実践するということに他なりません。

例えば、商品開発という場面では、そのOutputがどういうお客様にどういう価値を提供できるのか、それが人々の幸福にどう役に立つのか、自分は人生で何のためにこの行為を行うのか、などを自問自答する必要があります。

そして、その商品を提供することに留まらず、他者にもその智慧の施しを行って、開発文書やルールに落とし込んでいかなければなりません。

そのようなことを行っていたらタイムリーなOutputはできず、時間がかかって開発競争に後れを取ると思われるかも知れません。

しかし、それは以前にお話したとおり、根本的に誤りで、競争による経済活動を改めなければならないということなのです。

これからは、経済活動も含めて、全てが自分の修練の場なのです。

そのために、企業や国家は、学校と同様、皆に平等にそのような時間と場を提供していく必要があると思われます。

特に、50%理論によるこの縁を結ぶ活動は、直接経済活動につながらない公共機関や官庁などに務める公務員を中心に、まず施行・拡大して行くのがよいかと思われます。

 

かつて、人は「時は金なり」と言いましたが、その本質は時間を削って金を貯めるのではなく、修練に時間を費やすことの価値を謳ったものと解釈してみてはいかがでしょうか?

そこから、新しい未来が見えてきませんか?