重要事項書き抜き戦国史(154) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(320)

重要事項書き抜き戦国史《154》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《44》

プロローグ 戦国史Q&A《その44》

信長はどのようにしてつくられたのか(その二十)

 

 このあたりで大久保忠教著『三河物語』で松平宗家の家憲として述べられている「当主が具備すべき武勇・情愛・慈悲」について考察することに致します。

 私たちは蓮如のコメント「善を為すにおいて消極的なりといえども悪を懲らすことこそ大善なり」を天下布武の同義語と理解して、蓮如の吉崎御坊開山をその嚆矢として参りました。天下布武実現の手段として蓮如が採用したのが王法為本説です。宗教の分野では仏法が基本で、一般世間では正しい王道が行われなければならないとし、そのためには「当主が具備すべき武勇・情愛・慈悲」の条件を満たした為政者を担ぐ必要がある、と、私たちは拡大解釈したわけです。推測ですから、当然、裏づけとなる事実を検索してこなければなりません。

 当座、以上の事柄を前提条件として考えますと、王法為本説を無視してみずからが為政者となり加賀国を横領して「百姓の持ちたる国」に変えてしまった首謀者下間蓮崇、半将軍の異名をとる管領細川政元と密着して身動きが取れなくなり、宗門をトラブルで麻痺させ、山科本願寺を焼亡させた蓮淳、以上の二人が天下布武の二大阻害要因であった歴史的事実が浮き彫りになります。蓮如としては二人とも取り除きたいのですが、二兎を追う者一兎をも得ずになることをさけるため、とりあえず一兎の蓮淳を利用する方策をとり、もう一方の一兎を確実に仕留める計画に変更したのが明応七年で、その手段として実行に移されたのが祖父・子・孫三代養子事件でした。これは浄土真宗の歴史記録には事件としては記録されない事実ですが、可視化法で見えるようにした事実であり、れっきとした事件です。すなわち、蓮如はみずからの臨終の機会を利用して破門を解くことを餌にして蓮崇を山科本願寺に呼び出し、蓮淳に毒殺させた事件です。本泉寺の院家は蓮如の次男蓮乗でしたが、病弱であることから蓮崇をコントロールできず、改善策として蓮悟が養子として蓮乗のもとに送り込まれたのですが、木乃伊取りが木乃伊になって藪蛇の結果になりました。次いで計画されたのが三代養子事件です。そのために養子の名目で実悟(光童丸)が人質として加賀本泉寺蓮悟のもとに送り込まれました。浄土真宗の歴史ではそのような解釈は行われておりませんが、事実に語らせれば一目瞭然です。

 一方、蓮如の方針を忠実に実行に移したのが、三河一向宗門徒武士団の初代総代石川政康です。政康は蓮如が下野国へ布教に出たとき三河国に来るように誘われてきて門徒武士団を組織した人ですから、直参中の直参です。佐々木上宮寺の如光とともに蓮如にとっては天下布武事業の成功例でしたから、如光の死後、下手にいじってなけなしの成功例を台無しにしてしまうことを恐れたのでしょう、三河・尾張・美濃一円に関係することのすべてを政康の裁量に委ねました。蓮如は下間蓮崇に「北陸の政康たれ」と期待して天下布武の事業を担当させたのですが、前述のように失敗してしまいました。この政康に仕官を持ちかけたのが三河松平氏中興の祖信光の三男親忠(安祥松平氏初代)で、文明三(一四七一)年、「政康の男子一人を召され家老となされる」と伝えられております。この政康の男子一人が三男の親康で、親康の嫡男忠輔が三河一向宗門徒武士団の二代総代となったとき、すなわち永正三年の今川進攻がきっかけとなって集団で松平氏に仕官したと理解すると話の通りがよくなります。宗瑞の攻撃で壊滅的なダメージを被った岩津松平氏に代わって三河松平氏宗家となった安祥松平氏にとって、宗瑞軍と戦った忠輔・清兼父子は最大の功労者でしたし、一気に人数が増えた家臣の中核を三河一向宗門徒武士団の武士が占めたわけですから、時の総代石川忠輔の発言力は相当なものであったと思われます。

 ここからが少し話がややこしくなりますので、対山科本願寺(または石山本願寺)と松平氏内部の動きに分けて述べます。まず、天下布武の関連から対石山本願寺から入ることに致します。

 さて。

 蓮淳対三河一向宗門徒武士団総代家石川氏の対決が、武士団の旦那寺本證寺と報土寺の訴訟事件「本末論争」となって現れたのが天文十年です。発端はいつか未確認ですが、天文十年(一五四一)年八月十九日、石山本願寺法主証如が裁定を下し、下間真頼が裁定三ヵ条を本證寺に伝達して「報土寺は石山本願寺直参で、本證寺の末寺ではない」ということになりました。三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼にとっては、織田家に「武勇・情愛・慈悲」を具備した当主候補として信長が資質の片鱗を見せ始めただけに、報土寺が一門一家衆による支配体制を強める石山本願寺に組み込まれるのは極めて憂慮すべきことでした。証如時代の石山本願寺の支配体制について新編『安城市史・通史編1』は次のように述べます。

《大永五(一五二五)年に実如の跡を継いだ証如(一五一六~一五五四)の時代、山科本願寺は天文元(一五三二)年に法華宗徒や六角氏らの攻撃により焼失し、本願寺は大坂石山に移る。実如・証如の時代になり、本願寺教団の社会的影響力はかなりのものとなり、畿内中央の政局においても無視できない一大勢力となっていた。本願寺は全国に所在した門末を組織的に掌握するため、宗主(実如・証如)の血縁・親族である一家衆を各地に派遣して地方教団を管轄させた》

 あるいはまた、次のようにも述べます。

《勝鬘寺は蓮如を従祖父とする血縁・系譜関係を持つ了顕の入寺により、本願寺の血縁に連なり末一家衆となった。その後、了顕の子了勝が永正十一(一五一四)年に本願寺実如より法名を授かり、勝鬘寺を継いだ。上宮寺の如舜が大永六(一五二六)年に没して後、その跡を継いだのは勝祐であったが、これは了勝の弟であった。そのため勝鬘寺と上宮寺は血縁関係となり、両寺ともに末一家衆として教団内における位置を上昇させる。これに対し、本證寺が本願寺の血縁に連なるのは上宮寺・勝鬘寺より遅れ、永禄五(一五六二)年のことであった》

 新編『安城市史・通史編1』は「本證寺が本願寺の血縁に連なるのは上宮寺・勝鬘寺より遅れた」事実をネガティブにとらえて書いていますが、これこそ清兼が阻止してきた努力の成果です。末寺ですら取り上げられてしまうとなれば、本證寺も継職を機に一家衆を送り込まれて取り上げられる恐れが大でした。それなのに、一転、永禄になって空誓の受け入れに傾いたのは、家康と計画する自作自演の「三河一向一揆」以後、酒井忠尚を除くほぼ全員が浄土宗に改宗することが決まっていたためとみるのが自然です。なぜかと申しますと、結果が目的の法則に当て嵌めるまでもなく、「酒井忠尚を除くほぼ全員が浄土宗に改宗する」という結末があまりにも恣意的であり、経緯もまた作為に満ちているからです。これこそ、三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼が本願寺に忠実であるよりも天下布武に軸足を置くことを優先させた証左です。

 一方、もう一人の家老酒井忠尚が清康の家督相続を積極的に支持したのは、清康が岡崎城を根拠にしていたからで、矢作川右岸の西三河を地盤にする石川忠輔に対して忠尚が東三河を地盤にしていたことと深く関係がありそうです。大草松平氏の信貞から謀で岡崎城を横領した清康を忠輔・清兼父子が忌避した理由もそのあたりにあるとみてよいのではないでしょうか。

 次回もこの問題に言及します。

 

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