重要事項書き抜き戦国史(155) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(321)

重要事項書き抜き戦国史《155》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《45》

プロローグ 戦国史Q&A《その45》

信長はどのようにしてつくられたのか(その二十一)

 

 今回は少し角度を変えて考察することに致します。

 天文四(一五三五)年秋、松平清康が兵七千を率いて守山城攻めに出陣したとき、家老の阿部定吉が謀反を企てているという噂が陣中に流布し始めました。清康が噂を信じて定吉を疑いだしたため、定吉は子の正豊に「自分が討たれるようなことがあったら身の潔白を晴らせ」と書き残して出陣します。これが「守山崩れ」の発端で、十二月五日、織田信光の守る守山城への攻撃が開始されると、大手門付近で馬が騒ぐ出来事があり、その騒ぎを定吉が討たれたと勘違いした子の正豊が、松平清康を殺害する事件が起きました。直後に清康の側にいた植村氏明が正豊を討ち、阿部定吉は責任を負って自害しようとしたのですが、広忠にとめられ、そのまま仕えるというまことに理解しがたい推移をたどった事件です。

 清康と対立してきた松平信定の策略とする説もあるようですが、それだけで説明がつくとも思えません。その後、信定は清康の弟信孝を抱き込み、岡崎城を押領して、広忠の殺害を企てますが、広忠は阿部定吉に守られながら、吉良持広の庇護のもと伊勢国に逃れてのち、定吉と吉良持広の仲介で駿府にて義元と会談、表面上は今川松平同盟が成立した恰好ですが、それには裏がありそうです。

 義元はどうして広忠を殺し松平氏を滅ぼさなかったのでしょうか。

 五穀豊穣で、三河木綿などの産物にめぐまれ、伊勢湾舟運の一翼を担って経済活動が盛んな三河国と尾張国は、義元にしてみれば喉から手が出るほど欲しい土地だったはず。その三河国が手に入る絶好のチャンスだったのです。しかし、義元は竹千代を人質に取って松平氏を存続させる策に出ました。

 どうしてでしょうか。

 考えられるのは三河一向宗門徒武士団の存在です。永正三年から四年にかけての敗北によって三河一向宗門徒武士団の軍事力を見せつけられ、そのために時の当主今川氏親は本国で一向宗の布教を禁じたわけですが、義元からすると氏親と宗瑞が犯した痛恨のミスだったろうと思うのです。したがいまして、義元が駿府で広忠と会談したとき、本当の交渉相手は広忠ではなく、さりとて岡崎城を横領して居座る松平信定でもなく、三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼こそ本当の交渉相手と認識したと見るのが妥当です。それゆえに三河一向宗門徒武士団を永遠に彼岸に追いやってしまった永正三年の氏親と宗瑞の取り返しのつかない痛恨のミス「一向宗の禁教」が悔やんでも悔やみきれなかったと思うのです。

 義元と雪斎はいかなる挽回策を取ったのでしょうか。

 過去の歴史ですからすでに答えは出ていて「竹千代を人質に取って、石川清兼を従わせる」こと、そして一向宗懐柔策、この二つが義元と雪斎の取った挽回策でした。

 以上のような事後の推移に照らすとき、「天文四年の守山崩れがどうして起きたのか」という疑問に答えることは、これがきっかけで清康支持にまわっていた酒井忠尚の姿勢が一変、松平信定を担いで反清康に転じたわけですから、そうした観点から見過ごすわけにはいかないのです。そこで、守山城にどうして三河国桜井城主の松平信定が入り、いつ、いかなる理由で、織田信光が信定に代わって入ったのか、この疑問から入ることに致します。まず、守山城がいつ築かれたのかと申しますと、信秀の妹を正室として迎えた信定に当地が知行地としてあてがわれ、館を築いた大永六(一五二六)年あたりと考えるのが自然です。同年三月二十七日、松平信定が守山の館で千句連歌会を開いて清須から招かれた織田一族が同席、連歌師宗長の『宗長手記・下巻』に「花にけふ風を関守山路哉」と詠んだ発句が記されているからです。

 ところで。

 那古野城が今川氏に命じられて小笠原定基よって築かれたのは永正三年前後のことでしたから、新編『安城市史・通史編1』が述べる《この細川の城は上野の通路を確保するために必要という認識のようである。上野が今川氏の戦略上いかなる意味を与えられていたのかは想像するしかないが、通路確保が問題となっていることからすれば、上野か上野の向こうに今川氏に呼応する勢力がおり、かつ同時に上野が反今川方の攻撃を受けることが予想されたということであろう》という記事が、俄然、重要性を帯びて参ります。

 新編『安城市史・通史編1』が述べる《上野か上野の向こうに今川氏に呼応する勢力がおり、かつ同時に上野が反今川方の攻撃を受けることが予想された》に該当するのが那古野城と考えると、どういうことになるでしょうか。あるいはまた氏親に那古野城の築城を命じられた小笠原定基の軍勢とは考えられないでしょうか。いずれにせよ、宗瑞が岩津城を接収しただけで撤退してしまったため「その先の行動」が消滅してしまったわけですが、同書が典拠とする「八月十五日付奥平定昌あて今川氏親書状の写し」によって、今川が三河国だけでなく尾張国まで併呑しようとしていた可能性が浮き彫りになりました。

 すなわち、那古野城の築城は今川氏親と伊勢宗瑞による三河・尾張進攻計画の一環で、宗瑞の不可解な撤退が原因で尾張国にぽつんと唐突な感じで取り残されたと見るのが自然です。

 しからば、築城地がなぜ那古野であったのかと申しますと、守山城が築かれるのはこれよりもずっと後ですから、清須城・楽田城・犬山城と連なる織田方の防衛線を攻撃するための前進基地として当地が選ばれたということではなかったでしょうか。

 ここに「清須城・楽田城・犬山城という織田氏の防衛ライン」という新しいカテゴリーが浮き彫りになりました。その後、ぽつんと孤立して取り残された那古野城は連歌の会などを催して実害がないことを匂わせながら存続するわけですが、織田氏にとりましては今川氏による事実上の宣戦布告状にほかならなかったことになります。新編『安城市史・通史編1』が《上野か上野の向こうに(中略)上野が反今川方の攻撃を受けることが予想された》とする反今川勢力に該当するのが織田氏であり、織田氏が対抗手段として講じたのが守山城という認識がここに生じます。そういう意味で織田氏にとりましては、守山に松平信定を置く意味は極めて大きかったことになります。

 次回も石川忠輔と酒井忠尚が微妙にスタンスを異にした理由について言及します。

 

                     《毎週月曜日午前零時に更新します》