重要事項書き抜き戦国史(153) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(319)

重要事項書き抜き戦国史《153》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《43》

プロローグ 戦国史Q&A《その43》

信長はどのようにしてつくられたのか(その十九)

 

 永正三年から同六年にかけて行われた井田野の合戦で宗瑞軍一万を撃退したのが三河一向宗門徒武士団であることは、これまでの考証で説明した通りです。今回は傍証として新編『安城市史・通史編1』がのべる「宗瑞は岡崎松平氏を警戒して押さえの部隊を根石原(岡崎市根石町)に置いた」という記事を引用して、さらに証拠固めをします。時系列的に申しますと、当時の山中城主は浄土宗から一向宗に改宗した大草松平氏三代目当主信貞(昌安)でした。信貞は三河一向宗門徒武士団の時の総代石川忠輔(清兼の父親)の支援があったればこそ宗瑞軍に対抗できたとみるのが自然です。忠輔の子の清兼が第三代総代になるのとほぼ同時期ですから、清兼もまたこの件に深く関与したとみて差し支えないでしょう。

 また、新編『安城市史・通史編1』が「圧倒的優位な軍勢を誇ったはずの宗瑞軍が不可解にもみえる形で今橋に引き揚げた」と述べる事実をどのように理解したら、より真相に近づけるのか、この疑問の答えを考えることに致しますと、「氏親・宗瑞にとってはまず三河攻撃ありきで、三河で戦争を始めること自体が目的だった」という推測が可能になって参ります。推測の根拠として新編『安城市史・通史編1』が引用したのが八月十五日付奥平定昌あて今川氏親書状の写しに読み取れる以下の文言です。

《先に文書に述べたとおりにおまえの国(三河)に加勢するために、来る(八月)十六日に諸勢(諸々の軍勢)を差し越すつもりでいる。田原(戸田憲光)と申し合わせ、先頭に立ったおまえの働きが肝要である。例式(決まった作法、緊密な連絡という意味か)をおろそかにしてはならない。こちら側の軍勢が逗留しているうちに、細川(岡崎市細川町)に一城を取り立てて上野(豊田市上郷町)の通路が間違いないように「調談」(はかりごとをもって交渉)することが専一である。云々》

 一揆契状に従った松平氏と従わなかった松平氏の違いを考えた場合、文中にある「田原(戸田憲光)と申し合わせ」とあるのは、大樹寺に事あるときはすべてに優先して駆けつける一揆契状に署名しておりながら、戸田憲光が今川方についていた事実を暴露するものですから、戸田氏もまたこの時点では「従わなかった松平氏」に分類するのが妥当です。ところが、他の文献に優勢なはずの今川が撤退した一因に戸田氏が不穏な動きをみせたことがあげられています。事実と致しますと、戸田憲光が三河一向宗門徒武士団の時の総代石川氏から働きかけを受けたという以外に理由は考えられず、当然、後半期の戸田氏は「一揆契状に従った松平氏」にシンパの立場として分類され直すことになります。

 あるいはまた、新編『安城市史・通史編1』は当該記事を三河国に限定して述べているわけですが、《細川(岡崎市細川町)に一城を取り立てて上野(豊田市上郷町)の通路が間違いないように「調談」(はかりごとをもって交渉)することが専一》の文言から、氏親が尾張進攻を同時に野に置いていた事実が浮き彫りになります。

 そうした意味から致しますと、新編『安城市史・通史編1』の次の記事は極めて示唆にとんだものになって参ります。

《文面からすると、この細川の城は上野の通路を確保するために必要という認識のようである。上野が今川氏の戦略上いかなる意味を与えられていたのかは想像するしかないが、通路確保が問題となっていることからすれば、上野か上野の向こうに今川氏に呼応する勢力がおり、かつ同時に上野が反今川方の攻撃を受けることが予想されたということであろう》

 少し時代は新しくなりますが、松平清康が陣中で側近の家来に殺された天文四(一五三五)年当時の守山城主はだれであったかと申しますと、織田信秀の弟の信光でした。守山城はかつて信秀の妹を妻にしていた桜井松平氏の氏祖信定に与えられていたのですが、いつの間にか信光に入れ替わって、信定本人は上野城にいたとされます。もっとも、信定の本拠は桜井城でしたから、本城と上野城を行き来していたのでしょう。したがいまして、永正三(一五〇六)年から天文四年までの二十九年間に松平氏と織田氏の間に起きたことを知ることが、守山崩れの背景を知るうえで先決かつ不可欠になります。

 天文四年の守山崩れがどうして起きたのか。

 真っ先に考慮すべき出来事が清康の父信忠の廃嫡です。

 今川と戦った安祥松平氏初代長親は、永正五年、いきなり隠居して家督を嫡男信忠に相続させました。隠居した理由は不明ですが、あまりに早い隠居には疑問符がついてまわります。松平長親が二代当主に指名した信忠は今川との戦いでさしたる働きも見せず、大久保忠教著『三河物語』で宗家の家憲として述べられている「当主が具備すべき武勇・情愛・慈悲」に欠ける行いが多く、家中の者、領民から恐れられ、城に出仕するのを怠ったり、謀反の噂が絶えないなど、主君に向かない「不器用者」として家老の石川忠輔と酒井忠尚の二人によって廃嫡され、大浜の称名寺に隠居させられました。

 考慮すべきは、石川忠輔が三河一向宗門徒武士団の時の総代、酒井忠尚も忠輔とは別系統の一向宗門徒だったことです。石川氏は初代政康の代に長親の父・親忠に請われて三男の親康のみを家老として安祥松平家に送り込んでおりますが、三河一向宗門徒武士団そのものは独立した存在でした。三河一向宗門徒武士団のかなりの構成員が安祥松平氏に集団で仕官したのが永正五年あたりと想定した場合、家憲の「当主が具備すべき武勇・情愛・慈悲」は三河一向宗門徒武士団が集団で仕官するときに付帯された規範条件であった可能性が生じて参ります。長親は「自分はそのような器量人ではない」として隠居し、嫡男に後継させようとして拒否されたということではなかったでしょうか。

 しかしながら、幼少にもかかわらず当主の座に就くことになった清康もまた当該条件に照らし、忠輔・清兼父子にとっては望ましい人物ではなかったはずです。ところが、忠尚が清康を支持する側にまわり、ほかに適任者が見当たらなかったため、大永三(一五二三)年、同意するのやむなきに立ち至ります。

 石川忠輔・清兼父子が清康を忌避した一番の原因が今川撃退の最大の功労者だった大草松平氏三代信貞(昌安)から謀略を用いて岡崎城を奪っていたことでした。家憲の「当主が具備すべき武勇・情愛・慈悲」に反する行為です。めぐる因果は糸車で過去の行いはいまさら隠しようがなかったのです。

 ところが、清康支持にまわった酒井忠尚の清康に対する姿勢が一変します。松平信定を担いで反清康に転じたのです。本当は微妙に違うのですが、理由をわかりやすく説明するために、当座、最大の原因が守山城攻めにあったことに致します。結果が目的の法則に当て嵌めて申しますと、清康を取り除いて信定を松平の当主の座に就けることが、忠尚の新たな目的になりました。かくして酒井忠尚は、同じ一向宗門徒でありながら、信定も清康も大同小異と考えて静観する忠輔・清兼父子と一線を画すことになります。

 

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