重要事項書き抜き戦国史(141) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(307)

重要事項書き抜き戦国史《141》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《31》

プロローグ 戦国史Q&A《その31

信長はどのようにしてつくられたのか(その七)

 

 大徳寺情報網が把握し世間に広めた情報のつづきです。

 ――双頭の魔物の片割れは、両細川の乱に先立ち、細川政元に味方して一向一揆軍二千を畿内ならびに越中などに送り込み、混乱に輪をかけただけでなく、みずからも騒乱の種をまき散らしてきた。

 以上の事実を裏づける証拠として大徳寺情報網が持ち出したのが、永正三年に起きた九頭竜川大会戦の布陣図でした。

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 布陣図によると九頭竜川右岸の鳴鹿表に超勝寺実顕を将とする五万五千、領家に河合藤左衛門宣久、蕪木右衛門入道常専の両将が率いる十万八千、中角に越中瑞泉寺蓮欽率いる八万八千、左岸にある黒丸村の対岸(すなわち右岸)に河合藤八郎と山本円正入道ら五万七千、合計三十二万八千。迎えうつ越前朝倉軍は鳴鹿表対岸の鳴鹿口に朝倉景識、魚住帯刀以下三千三百騎、中角対岸の高木口に朝倉景富、青蓮華右京進、堀江景実、武曾深町以下二千八百騎、黒丸口には山崎祖桂、中村五郎右衛門、半田次郎兵衛、江守新保以下二千騎、総大将の宗滴は敵の中核が陣を置く領家対岸の中ノ郷口に有藤民部丞、前波藤右衛門以下三千騎を展開させていた。

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 驚いたことに加賀三ヵ寺の院家の名前が一人も記録にありません。加賀三ヵ寺院家本泉寺蓮悟、波佐谷松岡寺蓮綱、山田光教寺蓮誓の三人に代わって河合宣久と蕪木常専が総大将の代役を務めたことがわかります。あまつさえ越前国超勝寺の院家で蓮淳の娘婿実顕、越中瑞泉寺の院家蓮欽の名があることを考えますと、偶然では片づけられない意図がそこに読み取れるのです。

 蓮欽は蓮如の九女了如を妻に迎えている越中勝興寺の院家です。大小一揆の際には蓮淳の娘婿で越中瑞泉寺の院家になった実玄(蓮誓の次男でありながら)とともに大一揆側についていた事実に鑑み、アンチ加賀三ヵ寺派とみるのが自然です。ましてや、山科本願寺の法主実如が四男実円の手配による一揆兵二千を率いて越中入りしていた事実に照らせば疑問の余地は限りなく狭まります。

 ところで。

 越境した軍勢三十万の部将に加賀三ヵ寺の院家の名が一人としてないのはどうしたわけでしょうか。答えは次の事実が雄弁に伝えています。

 すなわち、加賀三ヵ寺の院家らは能登討伐を宣言して国境に軍勢を進め、実如を加賀に引き入れるために派遣されてきた蓮欽を越境軍に振り向けておいて、みずからは実如の動きを封ずる作戦に出たのです。実如は越中に進出した三河一向一揆を討伐にきた越後上杉勢を撃退して能登へやってきたものの、蓮悟の軍勢に妨げられて国境から能登へ一歩も踏み込めませんでした。畠山家俊と組んだうえでの「能登討伐宣言」だったとしか思えない蓮悟の動きです。

 かくして、九頭竜川大会戦は越前のみならず加賀・能登・越中にまで広がりを持ったいくさだったことがわかります。結果として越中で実如が部分的に勝利を収めた以外は惨憺たる敗北に終わり、越前から逃げ帰った超勝寺実顕・本覚寺蓮光らが加賀国にとどまって小松に本覚寺を創建、蓮恵を院家にして、二十五年後の大小一揆の原因をつくります。

 実如を戦場に駆り出すほどの実権を握り恣にできる蓮淳とは何者?

 京雀の興味は蓮淳に移り、その悪行ぶりが知れると、このときを待っていたように大小一揆のことを書いた記事が高札になって京の辻々に掲げられたとしたら、どのような書き方になるでしょうか。

 ――九頭竜川で大敗を喫して加賀国に避難していた超勝寺・本覚寺門徒が越中国に侵攻したのは享禄四年閏五月九日だったが、これに加賀三ヵ寺の本泉寺蓮悟、波佐谷松岡寺蓮綱の嗣子蓮慶、山田光教寺蓮誓の三男で院家を継職した顕誓が反発、討伐軍を送って戦った。これを発端として起きた一向宗内部の一大争乱を大小一揆という。小一揆側の実悟は願得寺を焼かれたうえに破門され、追捕を受けて能登国に潜伏するに立ち至った。そのとき、願得寺実悟の救援に駆けつけた能登国西谷内城主畠山家俊は乱戦に巻き込まれて討ち死、越前国朝倉家の執政宗滴は間に合わずに引き返した。

 以上の記事で、九頭竜川大会戦、大小一揆のどちらにも蓮淳という首謀者がいた事実が浮き彫りになりました。蓮淳はとうとう加賀国を手に入れて西の石山本願寺に匹敵する石垣積みの大城郭尾山御坊を築きます。尾山御坊は天文十五年に竣工し、西の石山本願寺に匹敵する規模になりました。

 ――山科本願寺が焼亡して危機は去ったか?

 ――否、蓮淳は山科のときよりも数倍の規模にして石山に本願寺城を築きあげ、それに勝るとも劣らない規模の尾山御坊まで築いたのだから、むしろ、危険は増大した!

 かくして危機意識は極限にまで高まり、はたして京雀の中には山科から淀に出て、舟で淀川河口の渡辺津へ下り、図面と照らし合わせながら石山本願寺を見物して帰り、噂以上の大城郭になっていたという報告を噂として流布させます。

 ――石山本願寺の法主は証如のはずだが、一末寺の院家にすぎない蓮淳にどうして実如時代と変わらぬ権勢を振るうことができるのか。

 さすがに加賀国にまで出向いて尾山御坊を偵察するもの好きはいなかったものの、調べると蓮淳の娘が証如の母親であることがわかります。加えて、四人いる娘が四人とも越中瑞泉寺実玄、越前国藤島超勝寺実顕、前法主実如の法嗣円如、蓮如の十一番目の男子で、摂津国久宝寺御坊の院家実順という具合に総本山と地方の有力基幹寺院の院家のもとに輿入れしている事実が芋蔓式にわかって参りました。

 さては、もう一人の魔物とは、蓮淳のことなのか。

 好奇心が旺盛で詮索好きの京雀ならずとも、丹念に事実を当たって再構成すればわかることですから「フィクションか、ノンフィクションか」といった方法上の判断の必要はないと私たちは考えます。

 

                     《毎週月曜日午前零時に更新します》