重要事項書き抜き戦国史(140) | バイアスバスター日本史講座

バイアスバスター日本史講座

バイアスがわれわれの判断を狂わせる最大の原因……。
バイアスを退治して、みんなで賢くなろう。
和製シャーロック・ホームズ祖父江一郎のバイアスバスター日本史講座。

バイアスバスター日本史講座(306)

重要事項書き抜き戦国史《140》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《30》

プロローグ 戦国史Q&A《その30

信長はどのようにしてつくられたのか(その六)

 

 戸田康光の立場で考えますと、最も頼りになる相手を探るのが筋道ですから、三河国を本拠にして尾張国、美濃国にまで勢力を拡大してきた三河一向宗門徒武士団と時の総代石川清兼という選択肢が最重要カテゴリーになります。

 ただし、頼りになるというだけでは松平竹千代の拉致計画に加担するわけには参りません。今川を敵にまわすにしても犬死に終わらない保証が欲しいところです。

 実はここが大事なところですから、当時の判断材料を整理する必要があります。

          *

 時系列的には天文十六(一五四七)年八月のことでしたが、そのときから一年ほどさかのぼる天文十五年九月二十八日、今川家の現当主義元が三河国一色城主牧野保成に田原城の戸田康光から取りもどした今橋城と周辺の領地を安堵すると申し送ったことに端を発してストーリーは展開します。

 三河一円の武将たちが「すわ、今川の上洛か」と色めき立った理由は、今川が上洛するときは今橋城を足がかりにするのが過去の通例で、そのことが世間で広く認識されていたからです。事実、北条早雲(当時の名乗りは伊勢宗瑞)が今川氏親の名代として三河国に侵攻した永正三(一五〇六)年十月の第一次、永正五年の第二次のいずれのときも今橋城を足がかりにしております。大永五(一五二五)年に今川氏親が信濃国の小笠原定基を尾張国に侵入させて築かせた那古野城に末子の氏豊を置いて目と鼻の先にある清須城の尾張守護斯波義達を監視させた事実がありますが、そのときは将来への布石にとどまり、上洛には至らず、したがって今橋城に軍勢を入れておりません。その那古屋城を織田信秀が奪い、氏豊を追放したのは天文十六年当時から九年前の天文七年で、今は織田信秀の嫡男信長が居城にしています。

 今川の上洛はあるのかと申しますと、天文十四(一五四五)年に義元は関東管領上杉憲政に内通して駿河国東部の北条領に侵入、北条氏康が出陣すると、武田晴信(信玄)とともに迎え討って第二次河東一乱起こしたばかりでしたから、三河に振り向ける余力はないはずです。軍勢を差し仕向けるとしても那古屋城を奪った信秀に報復するだけに終わる公算が大でした。

 天文十六年から十七年前の享禄四(一五三一)年、中央では三月七日に細川政元の養子を僭称する細川高国の軍勢が入京して、管領細川政元が暗殺されてからというもの興亡常なくつづいた両細川の乱を再燃させております。元来、両細川の乱のいちばんの原因は、世の人々から「半将軍」と呼ばれて権勢をほしいままにした政元が、持ち前の才気と気まぐれさから周囲を翻弄しつづけたことにあります。竜安寺の石庭を作庭するほど美意識にすぐれ、作歌もする文化人でもある反面、修験道に凝り固まり、気まぐれに政務を放り出して修験者になりすまし、放浪の旅に出て、後を追いかけた側近に旅先から連れ戻されたかと思えば、天狗の姿に扮装して屋敷の屋根に登り、飛行術の会得にうつつをぬかすなどして世間を唖然とさせました。あまつさえ、色道にふけって妻帯せず、後継者を用意しなかったため、内衆と呼ばれる側近に諫められて、晩年、ようやく養子を迎えるに至ったわけですが、最初に迎えた九条家の聡明丸は政元本人と折り合いが悪いため、元服して澄之を名乗ると領地を与えて遠ざけ、細川京兆家から六郎を養子に迎えました。両細川の乱は政元が迎えた二人の養子を支持する内衆と内衆が対立、やがて、自分たちの行く末に危機感を抱いた澄之の内衆が政元を暗殺したことに端を発して始まったのが、両細川の乱なのです。

 両細川の乱は政元が暗殺された永正四年当初は細川澄之と細川澄元の争いでしかありませんでしたが、関白九条政基の次男で細川の血筋を引かない澄之を排斥すべく高国が争いに加わり、澄元が管領になると、今度は高国が政元の養子を僭称して澄元を追い落とし、管領の座に就きました。すると、澄元の子の晴元が高国討伐を掲げて立ち、父親を復権させたため、一度は京を追われた高国が中国筋の雄・大内氏の後押しを得て再起を図ったのですが、またしても晴元に追討を受けて、六月八日、逃亡先の尼崎の寺で詰め腹を斬らされてしまいました。半将軍と呼ばれるほど権勢を恣にし、叡山焼き討ちを平然と行った細川政元を討った者の中から和平を実現する救世主が現れるか、と、一時は期待が高まりましたが、結局、中央の浄化などは夢のまた夢、自浄作用などは望むべくもありません。

 御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐと豪語してきた今川の上洛が天下布武を目的とするなら、時はまさに今でしたが、期待の今川の動きもまた東へ向かうのか西を目指すのか判然としませんし、ひょっとすると奪った領地の認証を受けるのが目的ではないかと疑念を抱く向きさえあって、今一つ、はっきりしないのです。

 そのようなわけで両細川の乱は大山鳴動して鼠一匹に終わってしまいそうな雲行きとあって、世の人々が失望する中、あたかもそうした悲観的な時の流れに待ったをかけるように「乱世の元凶をなす天魔は双頭の魔物だから政元のほかにもう一人いる」という噂を流す動きがみられたと致しますと、どういうことになるでしょうか。詮索好きの京雀があっと驚くところへ、絶妙の間合いで次の噂が追い討ちをかけます。

 ――双頭の魔物の片割れは、両細川の乱に先立ち、細川政元に味方して一向一揆軍二千を畿内ならびに越中などに送り込み、混乱に輪をかけただけでなく、みずからも騒乱の種をまき散らしてきた。

          *

 少し芝居がかってまいましたが、個人が流した噂であったとしても、事実を正確に把握して、ましてや世間に広く伝えるのは不可能ですから、情報網というカテゴリーを新しくもうけて考える必要が生じます。三河一向宗門徒武士団は独自の情報網を持ちますが、得た情報の使い道はあくまでも内部資料です。蓮如が蓮崇に命じて構築した情報組織は彼の暗殺によって自然消滅したはずですし、仮にどこかで機能していたとしても、蓮淳が放っておくわけがありませんから、清兼にとりましては情報網を持つ新たな組織が出現したことを意味していて、それはそれで放置できない大問題でした。

 結論から申しますと、清兼が自前の情報網を駆使して噂の発信元として探り当てたのが大徳寺情報網であり、当時、十六歳になって大徳寺の修行僧になっていた朝倉宗滴の実子古渓宗陳だったのです。三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼が朝倉宗滴の実の子の古渓宗陳にたどり着いたことで「信長はどのようにしてつくられたのか」という疑問の答えにかなり近きました。

 

                     《毎週月曜日午前零時に更新します》