重要事項書き抜き戦国史(139) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(305)

重要事項書き抜き戦国史《139》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《29》

プロローグ 戦国史Q&A《その29》

信長はどのようにしてつくられたのか(その五)

 

 前回の講座では「石川忠輔を総代とする三河一向宗門徒武士団と酒井忠尚をリーダーとする一向宗門徒武士という別々のグループが存在して、分派の原因が石山本願寺(山科時代を含む)に対するスタンスの違いである公算が極めて大きい」と述べましたが、実際はどうだったのか検証することに致します。

 まず、山科本願寺時代の分派事象の走りとして挙げられるのが、大小一揆です。享禄四(一五三一)年閏五月九日、越前国から加賀国に避難していた石山本願寺(当時は山科本願寺)の末寺・超勝寺・本覚寺門徒が越中国に侵攻したことに端を発して、加賀三ヵ寺の本泉寺蓮悟、波佐谷松岡寺蓮綱の嗣子蓮慶、山田光教寺蓮誓の三男で院家を継職した顕誓が反発し討伐軍を起こして戦いました。これを発端として大小一揆が起きたわけですが、小一揆側の実悟は願得寺を焼かれたうえに破門され、追捕を受けて能登国に潜伏するに立ち至ります。それに先立って、大一揆側から攻撃を受けた願得寺実悟の救援に駆けつけた能登国西谷内城主畠山家俊は奮戦して討ち死、越前国朝倉家執政の宗滴は間に合わずに引き返しました。

 実悟と畠山家俊のつながりは母親の蓮能が家俊の双子の姉という関係からきています。家俊と宗滴、宗滴と実悟のつながりは判明しておりませんが、事実が示す通りで、疑いの挟みようがありません。理由を考えるうえで重要なのが、大小一揆の原因となった九頭竜川大会戦です。加賀一向一揆三十万といういわれ方をしておりますが、実態は越前国の一向宗基幹寺院超勝寺・本覚寺門徒が中核を形成していて、各口の指揮官と兵力の配置は以下の通りでした。

 九頭竜川右岸の鳴鹿表に超勝寺実顕を将とする五万五千、領家に河合藤左衛門、蕪木常専の両将が率いる十万八千、中角に越中瑞泉寺蓮欽率いる八万八千、左岸にある黒丸村の対岸(すなわち右岸)に河合藤八郎と山本円正入道ら五万七千、合計三十二万八千。迎えうつ越前朝倉軍は鳴鹿表対岸の鳴鹿口に朝倉景識、魚住帯刀以下三千三百騎、中角対岸の高木口に朝倉景富、青蓮華右京進、堀江景実、武曾深町以下二千八百騎、黒丸口には山崎祖桂、中村五郎右衛門、半田次郎兵衛、江守新保以下二千騎、総大将の宗滴は敵の中核が陣を置く領家対岸の中ノ郷口に有藤民部丞、前波藤右衛門以下三千騎を展開させた。

 驚いたことに加賀三ヵ寺の院家の名は一人としてありません。院家に代わって坊官が総大将を務め、あまつさえ越前国超勝寺の院家で蓮淳の娘婿実顕、越中瑞泉寺の院家蓮欽の名があるではありませんか。蓮欽は蓮如の九女了如を妻に迎えている越中勝興寺の院家です。大小一揆の際には蓮淳の娘婿で越中瑞泉寺の院家になった実玄(蓮誓の次男でありながら)とともに大一揆側についておりますから、反加賀三ヵ寺とみてよさそうです。

 さて。

 以上の事実が語ることはあまりに重大です。触媒として山科本願寺の法主実如が四男実円の手配による一揆兵二千を率いて越中入りしていた事実を加味すると、越境軍三十万に加賀三ヵ寺の院家の名が一人としてない理由が浮き彫りになります。

 それもそのはず、加賀三ヵ寺の院家らは能登討伐を宣言して国境に軍勢を進め、実如を加賀に引き入れるために派遣されてきた蓮欽を越境軍に振り向け、実如の動きを封ずる動きに出ていたのです。越中に進出した実如を討伐にきた越後上杉勢を撃退して能登へやってきたものの、実如は蓮悟の軍勢に妨げられて国境から能登へ一歩も踏み込めなかったわけですから、畠山家俊と組んだうえでの「能登討伐」だったとしか思えないではありませんか。

 かくして、九頭竜川大会戦は越前のみならず加賀・能登・越中にまで広がりを持ったことがわかります。結果として越中で実如が部分的に勝利を収めた以外は惨憺たる敗北に終わり、越前から逃げ帰った越前一向宗超勝寺実顕・本覚寺蓮光らが加賀国にとどまり、小松に本覚寺を創建して子の蓮恵を院家にした例に見受けられるように、長く居座って、のちの大小一揆の原因を胚胎したのでした。

 ところで。

 戦国の世には「敵の敵は味方」という考え方がよく見受けられました。以上の観点から致しますと、越前朝倉家にとりましては、加賀国若松本泉寺の院家蓮悟は敵の敵ですし、現実に宗滴と家俊に味方した結果になりましたから、まして家俊と伯父甥の関係にある実悟の養父ともなれば、二人して能登の畠山氏を頼って二十年弱の長期にわたって潜伏できた事実に見事マッチして参ります。これほど明々白々なアンチ本願寺の証拠はありませんし、すぐ上の兄実賢の孫・空誓を本證寺に院家として送り込んでいる事実に鑑みて、宗滴・家俊・実悟・三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼が一味であったとみることにわずかの矛盾もないことになります。証如時代の石山本願寺について新編『安城市史・通史編1』は次のように述べています。

《大永五(一五二五)年に実如の跡を継いだ証如(一五一六~一五五四)の時代、山科本願寺は天文元(一五三二)年に法華宗徒や六角氏らの攻撃により焼失し、本願寺は大坂石山に移る。実如・証如の時代になり、本願寺教団の社会的影響力はかなりのものとなり、畿内中央の政局においても無視できない一大勢力となっていた。本願寺は全国に所在した門末を組織的に掌握するため、宗主(実如・証如)の血縁・親族である一家衆を各地に派遣して地方教団を管轄させた》

 本願寺と本證寺の対立を如実に示したのが天文十年に起きた本證寺と尾張国報土寺の本末争論でした。本證寺の布教域が尾張国と美濃国にまで広がっていたことはこれまでも述べてきましたが、詳細は不明ながら報土寺が本證寺の末寺から本願寺の直参寺に格上げされることを願って証如に訴えたため、当時はまだ存命だった本證寺の住持源正もまた「報土寺は本證寺の末寺である」と訴え返した事案です。それに対して証如が下した採決が「報土寺は本願寺の直参」でした。理由の一つが「報土寺は本證寺に対して末寺としての勤めをしていないので、本願寺の直参とみることができる」というものでした。だから、本證寺と報土寺の間で争論が起きたわけで、争論の原因を逆手に取って「本願寺の直参」とする論法には無理があります。このようなこじつけの論理を用いてまで末寺ですら取り上げられてしまうとなれば、本證寺も継職を機に一家衆を送り込まれて取り上げられる恐れは極めて大きく、本願寺が本證寺にかぎって一家衆を派遣しようとしなかった事実が逆にあり得ないこととして際立つのです。忠輔ないしは清兼が実悟の継職を条件に破門を解くよう陰で強力に働きかけたからではないかと私たちが考えるのは、そのためです。実悟の破門を解くために、本證寺門徒武士団が潤沢に隠し持つ資金を惜しみなく投じたことは想像に難くありません。結局、実悟の赦免が天文十九(一五五〇)年九月二十八日と若干遅れが生じたことにより、暫定的に「あい松」継職で落着をみることになるわけですが、天文十八年の本證寺門徒連判状に「源正の遺言通り、あい松の本證寺継職を本願寺証如に届出、その礼金として志納したので、めでたく継職認知」とあるように、かなりの資金が投入されたことがうかがえます。あい松への継職は源正の遺言となっていますが、清兼にとってはあくまでも実悟が本命であり、あい松は第二案だったのでしょう。いずれにしても、本願寺の介入を阻止したのは清兼の意地といってよいかもしれません。

 同じ三河一向宗門徒武士団と申しましても、石山本願寺に従順に従う酒井忠尚の一派と面従腹背の清兼を総代とする本證寺の三河一向宗門徒武士団との違いがどれほど大きかったか、以上の説明でおわかりいただけたと思います。

 

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