重要事項書き抜き戦国史(138) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(304)

重要事項書き抜き戦国史《138》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《28》

プロローグ 戦国史Q&A《その28》

信長はどのようにしてつくられたのか(その四)

 

 松平竹千代拉致事件ではっきりしているのは実行犯が戸田康光だということですが、これまで動機の解明がなされた形跡がないのです。しからば動機は何かと申しますと、真っ先に目がいくのが、天文十五(一五四六)年九月二十八日、今川義元が一色城主牧野保成に彼が戸田氏から奪回した今橋城および周辺の所領回復を安堵した事実です。以上の事実が意味するのは、永正三年と五年のときのように今川が三河国と尾張国に食指を動かすときは今橋城を足掛かりにするパターンを取ることです。もし、同じパターンが繰り返されるならば、牧野氏は今橋城を明け渡さなければなりませんし、牧野氏と敵対関係にある戸田氏は存亡の危機に直面します。しかしながら、一色城の牧野氏との今橋城をめぐる確執があったにせよ、長い物には巻かれろ式に康光には今川に降伏する道があったわけですから、以上の事実は単に背景にすぎないと判断するのが自然で、動機とまではいえそうにありません。

 戸田氏の当主康光は、かつて氏祖宗光の名を名乗ることを許されるほどの傑物でした。御家存亡の危機に直面したときによもや判断を誤る可能性は低いと考えるのが筋ではないでしょうか。氏祖から受け継いだ名誉ある名を捨て、松平清康から清康の「康」の一字を賜って康光と改名するくらいですから、康光と松平氏の結びつきは相当なものと考えなければなりません。両氏の氏祖松平信光と初代戸田宗光は後者が前者の娘を正室に迎えて以来、宗光が天台宗(晩年は曹洞宗に改宗)でありながら、直系の孫を浄土宗の大樹寺に何か事あるときは真っ先に駆けつける血判に署名させています。両氏の絆の強さは推して知るべし。しかし、清康はすでに亡くなっておりますし、子の広忠が当主となり、今川に隷従して世子を人質に差し出すありさまですから、結果から判断して康光が反広忠のスタンスを取ったのは明白です。

 さて。

 天文十四(一五四五)年に一向宗門徒で三河国碧海郡桜井城主松平家次が父の清定、家老の酒井忠尚らとともに広忠と戦って敗れています。いわゆる「広畔畷(ひろくてなわて)の戦い」と呼ばれている松平氏家中の内輪もめですが、勝者の広忠はなぜか忠尚を許しました。問題は許した理由です。自分を岡崎城から追い出し今川に走らせた信定も許した過去の例がありますから、共通の理由と考えるのが自然です。同様に当主の不利益になることを公然とやっておきながら不問に付されたパターンを検索しますと、安祥松平家の家老石川忠輔と酒井忠尚が当主信忠を「適格性を欠く」という理由で隠居させた例が見つかります。石川忠輔は三河一向宗門徒武士団の時の総代ですが、酒井忠尚は同じ一向宗の門徒でありながら、別組織に属しております。対立するほどではないにしても微妙に違う点が、石山本願寺に対するスタンスです。石山本願寺と面従腹背の三河一向宗門徒武士団に対して、酒井忠尚の旦那寺(寺名は調査中)は末寺としてのスタンスを最後まで全うした可能性が大なのです。のちに起きた三河一向一揆のとき、三河一向宗門徒武士団の反逆者は浄土宗に改宗する条件を受け容れて徳川家に帰参しましたが、忠尚は帰参しませんでした。理由は不明ですが、忠尚が最後まで本山の石山本願寺に義理立てしたか、あるいは家康が帰参を認めなかったか、どちらかであろうと思われます。

 すなわち、石川忠輔を総代とする三河一向宗門徒武士団と酒井忠尚をリーダーとする一向宗門徒武士という別々のグループが存在して、分派の原因が石山本願寺(山科時代を含む)に対するスタンスの違いである公算が極めて大きいのです。このことは後に大事な意味を持ちますから、記憶に長くとどめていただきたいと存じます。

 しからば、広忠を岡崎城から追い出した信定はどちらの派閥に属したのでしょうか。本人は天文八(一五四〇)年に亡くなっていて、孫の家次の代になったわけですが、そもそも岡崎城は一向宗徒の大草松平氏が築いた山中城を清康が当時の当主昌安(信貞)の娘於波留を正室に迎えることを条件にして乗っ取り、直後に離縁してのち、龍燈砦を略奪して本城にふさわしい規模に拡張したものですから、清康のときから一向宗徒の家臣とは関係がよくなかったのです。

 広畔畷の戦いは一次と二次の二度にわたって行われ、一次で敗北した広忠が二次で勝った原因の究明が重要性を帯びて参ります。と、申しますのも、今川の応援を得ない段階では負けて当然の広忠が、なぜ、今川の援軍なしに勝つことができたのか、はなはだ疑問だからです。

 今川以外にこの時点で広忠に味方する者はだれが考えられるでしょうか。

 ここはジグソーパズル法でいうところの特定のピースを嵌める個所が決まっているケースですから、当て嵌まるピースに該当する人物を検索して試行錯誤すればよいことになります。まったく白紙の状態の場合には試行錯誤が頻繁になりますが、すでに石川清兼と見当がつくまで煮詰まっておりますから、今回は当て嵌めるだけにします。

 清兼とする裏づけは、彼が竹千代の蟇目役であることです。

 と、なりますと、竹千代の将来に期待しないはずがなく、天下布武に道筋をつけるべくあらかじめ先手を打って今川に人質に差し出すことのないように、清兼が広忠に味方した可能性がなくもないのです。

 したがいまして、戸田康光には今川に尾を振るという選択肢は最初からなかったことになり、結局、三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼に頼ることになります。

 犬死だけはしたくない……。

 かつて宗光を名乗った傑物だからこそ持つ矜持……。

 どうせ死ぬるなら天下布武のために役立って死にたい……。

 康光のこの熱い思いが疑問の答えです。

 かくして松平竹千代拉致事件はわずかの疑問もなく成立致しました。

 

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