重要事項書き抜き戦国史(142) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(308)

重要事項書き抜き戦国史《142》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《32》

プロローグ 戦国史Q&A《その32

信長はどのようにしてつくられたのか(その八)

 

 これまで、蓮淳について注目して書いた文献や記事を見かけませんが、石山本願寺を前例のない大城郭に改変して信長に退去させられる天正九年まで戦国の世が長くつづいた原因をつくった人物ですから、ここを素通りたのでは話になりません。

 蓮淳の罪状の主なものを列挙すると次のようになります。

 一、加賀国を奪い取るために蓮如が危篤であるとの偽りの呼び出し状を加賀三ヵ寺の院家ならびに下間蓮崇に送って山科本願寺に呼び出し、蓮崇を毒殺したこと。

 一、蓮崇の暗殺に先立ち、加賀三ヵ寺の院家三人並びに蓮崇を呼び出すための方便として、三河国本證寺に入るはずの実悟を若松本泉寺蓮悟のもとに養子の名目で人質として送り込んだこと。

 一、時の管領細川政元に仕官する朝倉元景を使嗾して娘婿で越前国敦賀郡司の朝倉景豊に謀反を持ちかけさせたこと。

 一、朝倉弾正忠元景と結び謀反を企てた敦賀郡司朝倉景豊は主君朝倉貞景に金ヶ崎城を包囲されて自害。元景は近江国で挙兵したが、退却し、美濃国、飛騨国を経て加賀国に逃れた。このとき蓮淳も近江一向一揆を率いて参戦したが、敗北。敗走するところを近江堅田本福寺院家明宗に救われたにもかかわらず、命の恩人明宗の罪をでっち上げて破門に処したこと。

 一、永正三年一月、管嶺細川政元の要請を受けて、時の法主実如が畠山義英討伐軍を編成するため摂津・河内の門徒に挙兵を命じたため彼らが石山御坊に実賢を擁立して法主交代を求めた際、蓮淳は加賀国から千人の兵を徴募して下間頼慶を石山御坊に派遣し、亡き蓮如の五人目の妻蓮能および子の実賢、実順、実従を捕縛し、破門・追放に処し、加賀国願得寺実悟を連座させて蓮悟の養子を廃嫡した。

 一、永正四年八月、細川京兆家の家督を相続、管領になった細川澄元が実如を山科本願寺から追放した際、蓮淳は山科本願寺にいて傍観。このため、実如は近江堅田本福寺明顕・明宗を頼って潜伏。その後、蓮淳は明顕・明宗父子に冤罪を着せて再び破門した。

 一、大小一揆に際して、蓮淳は本願寺法主の名で超勝寺・本覚寺門徒の支援と加賀国三ヶ寺討伐を宣言し、法主執事下間頼秀・頼盛兄弟を派遣する一方、三河国土呂御坊院家実円に三河の兵を参加させた、ことさらに内紛の規模を大きくしたこと。

 一、蓮淳は亨禄五年に再々度冤罪をでっち上げて近江堅田本福寺明宗を三度目の破門に処した。

 一、蓮淳の毒牙をかいくぐり、唯一、無事でいるのが能登国に潜伏中の実悟と蓮悟であるが、主君の法主とおのれの恩人を一度ならず三度まで冤罪を着せて破門、かくのごとき悪行を重ねた蓮淳がこのまま引き下がるはずがなく、加賀一向一揆三十万を蓮悟に代わって指揮した河合藤左衛門宣久が実悟と蓮悟の潜伏する能登に亡命しようとして国境にきたところを待ち伏せさせた追捕の暗殺団に殺させたこと。

 このほか、細かく述べればきりがありません。

 実悟が三河国野寺本證寺入りすることになっていたとしたのは、結果として兄実賢の曾孫空誓が代わって本證寺に入ったことから掘り起こした「隠れた事実」です。

 私たちは方法論ビジネスへの参加を広く呼び掛けておりますが、戦国史・日本史の分野で隠れた事実を可視化するためにモンタージュ法をノウハウとして推奨しております。当然、モンタージュの対象になる事実を検索するセンスも必要ですし、文章・シチュエーション読解力も求められます。

 さて。

 三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼が面従腹背で石山本願寺に向き合った原因は実は蓮淳にあったわけですが、もう一つ、掘り起こさなければならない「隠された事実」がいくつか存在します。そのうちの一つが、太田牛一著『信長公記』に登場する軍師平田三位の属性です。平田三位はどのような人物か太田牛一は信長に確かめる機会を失ってから当該記事を書いておりますから、まったく言及しておりません。必然のなりゆきとして、モンタージュ法を駆使して「風が吹けば桶屋が儲かる」式に隠れた事実を掘り起こしますと、石山本願寺の坊官下間連旦に行き着きます。

 清兼にとりまして、連旦は桶狭間合戦の作戦立案はいうまでもなく、「信長をつくるプロジェクト」にも欠かせない手駒です、石山本願寺から情報を取る不可欠の要員でもありましたから、結果が述べる「来て・戻る」パターンの条件を満たします。さらに加えて桶狭間の地形を巧みに利用したように、長島という潮の満ち干で地形が一変する長島で織田軍を翻弄した末、信長に謀殺されます。

 なぜ、連旦が信長のもとを去り、石山本願寺に戻らなければならなかったのかと申しますと、ここで検索できないと次につながらないのが「越前の朝倉宗滴の実子・古渓宗陳」の存在です。下間連旦を石山本願寺に隠密として送り込んだ三河一向宗門徒武士団の情報網、古渓宗陳のもとで両者の連携が始まり、大徳寺情報網というカテゴリーが浮き彫りになって本能寺の変で決定的な役割を果たすことになるのですから、当然、親の宗滴と清兼のつながりが不可欠の要素です。めぐる因果は糸車ではありませんが、信長をつくる計画の策定に宗滴が欠かせない存在になって参ります。

 しからば、宗滴は信長をつくる計画でどのような役割を果たしたのでしょうか。

 はたまた、どのような人脈にものをいわせたのでしょうか。

 次回にくわしく言及します。

 

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