重要事項書き抜き戦国史(132) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(298)

重要事項書き抜き戦国史《132》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《22》

プロローグ 戦国史Q&A《その22》

どうして賢弟の信行はバツて愚兄の信長がマルだったのか

(その七)

 

 前回の考察で到達した「織田敏定を祖として敏信・良信・信定・信秀・信行とつづく主流派に対して、反主流派「織田弾正忠家で浮き上がった存在の信長とその高祖父久長」という織田氏の色分け」が、いかに重要な発見か、これからそれをストーリーで裏打ちすることに致します。

 ここで付け加えなければならないのが「久長の正室が朝倉教景の娘であることから、信長は朝倉宗滴とも遠い血縁である」という事実です。父親の信秀も同様ですが、久長に対するスタンスの違いで、主流派・反主流派に色分けできます。もっとも、信秀・信長・信行父子兄弟の時代に久長が存命だったとは考えられません。久長と密接なつながりを持っており、その系統を支持し維持する者がいたことになりませんと、ストーリーが成り立ちませんので、当座、当該人物を三河一向宗門徒武士団総代石川清兼として話を進めます。

 さて。

 楽田城に梶川宗玄・高秀父子の親の代に「大脇城主梶川五左衛門某」を送り込んだ人物を清兼とするのが妥当であると私たちは考えます。そのうえで、前回提起した「形勢が圧倒的に不利だった反主流派の久長と信長の背中を清兼がどうやって押し、大勢逆転にまで持ち込んだのか」という疑問の答えを探ることに致します。

 清兼が織田家に関与を深めるきっかけとなったのが、松平清康・広忠父子の織田離れ・今川への接近でした。清兼が松平氏への影響力を強めるために山中城と龍灯城を居城にしていた松平信貞(昌久)を一向宗に取り込むことに成功しましたが、清康は松平信定に対抗するため山中城の略取につづいて、信貞の娘・於波留を妻にすることで龍灯城までをもわがものとしたうえで拡張し、岡崎城と名を改め、矢作川を挟んで安祥城と桜井城を拠点に宗家乗っ取りを進める信定と対立します。このとき、山中城と岡崎城を清康に譲った信貞は大草に移って、一向宗門徒となって清兼とつながりを深めておりました。当然の帰結として、信定寄りの姿勢を見せていた清兼ではありましたが、信貞(昌久)との結びつきを優先させて、その娘婿清康の家老となって岡崎城に入ります。

 ここからが少しわかりにくくなるところです。

 三河一向宗門徒武士団総代の石川清兼は一向宗に改宗した昌久信貞との関係を優先させて岡崎城に家老として入りましたが、桜井城の信定と手を切ったわけではありません。清康の姿勢には与せず、清康も織田氏のみならず松平氏、水野氏まで取り込んでしまうほど勢力を拡大する三河一向宗門徒武士団総代石川氏を向こうにまわしてやり合うつもりはなかったのでしょう。その証拠に、前述したように、清康は岡崎城の城主になった大永四(一五二四)年、松平昌久の娘於波留を妻に迎えました。ただし、翌年には於波留を離別しておりますから、政略的な結婚だったとみるべきでしょう。結果として、大草松平氏の氏祖昌久信貞とは疎遠になり、清兼と溝が深まりました。その後、守山崩れ(森山崩れ)で清康は横死することになりますが、以上の背景なしには語れないものがあります。

 すなわち、清康の死を受けて広忠が松平宗家の当主の座に就くわけですが、家老としての立場から水野信元の妹を妻にしていた清兼が、同じく信元の妹・於大の方(家康の生母)との婚姻を執り持ちました。つまり、清兼は傍流にすぎない信定とは距離を保ったまま、広忠の取り込みに腐心したことになります。このように主筋の命令に必ずしも従わないで自分たちの都合で動いた点に三河一向宗門徒武士団の独自性があり、つまり、これこそが後に家康がマッチポンプ的に「三河一向一揆」を自作自演し、三河一向宗門徒武士団を浄土宗に改宗させ、帰り新参のかたちで家臣団に取り込むことになるのです。三河一向一揆当時、松平信貞は一揆側について吉良氏に身を寄せました。三河一向宗門徒武士団歴代総代家石川氏の末裔である数正は家康側でしたから、最初から「落としどころはここだぞ」という道筋が示されていたわけで、出来芝居の疑いが極めて濃いとする所以です。

 それはさておき。

 清康の死後、広忠は信定に岡崎城を乗っ取られて伊勢国を経て駿府に逃れ、今川氏から支援を取りつけて、岡崎城から信定を駆逐するのですが、清兼の仲裁もあってのことでしょうか、彼の罪を問うことはしておりません。しかしながら、当然の帰結として、今川義元が竹千代を人質に要求してきました。このとき、竹千代は六歳、生母於大の方の姉妙西尼を妻としていた清兼が蟇目役を務めましたから、広忠は三河一向宗門徒武士団総代家石川氏の桎梏から逃れようとして於大の方を離縁します。

 ニワトリが先かタマゴが先かになりますが、竹千代は六歳でしたが、何者かが拉致して尾張に連れて行くわけですから、もし、拉致犯人の首謀者が清兼であったと致しますと、三河一向宗門徒武士団を挙げて「竹千代の行く末に期待するところ大」だったことになります。

 松平竹千代拉致事件については、これまで一再ならず取り上げておりますから、人質として駿府に送られる竹千代一行が、三遠国境潮見坂で田原城主戸田康光に襲撃され、竹千代が尾張国に舟で拉致された事件であると説明するにとどめます。渥美半島老津浜から舟で三河湾に漕ぎ出し、伊勢湾を渡って尾張国津島湊に着いた竹千代は、まず生駒屋敷へ行き、やがて、楽田城に入った、と、私たちは推測するわけですが、すると、ストーリーはどういうことになりましょうか。

 そのとき、楽田城の城主織田久長が存命だったかは不明です。しかし、梶川高秀が城代家老としていたのは、その後、彼が信長に仕官して、田楽狭間の一本道の鳴海城側の出口を扼する中島砦に守将として入る歴史的事実に鑑み、容易に判断がつきます。織田弾正忠家の当主は久長の曾孫の信秀で、末森城に次男の信行とともにいて、嫡男の信長は親元から遠ざけられて那古屋城に入ったばかりでした。

 当然、尾張国にきた竹千代の存在は信秀の知るところとなります。

 今後、ストーリーはどのように展開するのでしょうか。

 

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