重要事項書き抜き戦国史(131) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(297)

重要事項書き抜き戦国史《131》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《21》

プロローグ 戦国史Q&A《その21》

どうして賢弟の信行はバツて愚兄の信長がマルだったのか

(その六)

 

 織田久長が信長の高祖父であることを証明するために、父親の信秀の父親が久長の嫡男敏定の七男であることを立証しました。そのねらいとするところは、宗滴をして「あと三年は生きて信長の行く末を見届けたかった」といわしめた原因となった人物はだれかはっきりさせることです。その人物が織田久長であることをこれまでの検証結果に基づいて証明していくことになります。

 まず、楽田城を築いた理由から言及することに致します。

 私たちは楽田城を築いた永正元年当時、久長は六十九歳見当と推測致しました。もしそうだと致しますと、久長が生まれたのは永享七(一四三五)年あたりの見当になります。久長は織田常松の三男として誕生したといわれますから、織田藤左衛門家の祖ないしは小田井織田家の祖といわれるのは分家だったためとわかります。嫡男の敏定の代に清須城に入って織田宗家に直るわけですが、そういう意味から致しますと、越前守護代朝倉教景の娘を正室に迎えたことが運気上昇の原動力になったのは明らかです。久長について尾張国に記録が乏しいのは英林孝景とともに越前国の守護代として活動した期間が長かったためと思われます。

 久長の岳父教景は長男家景が早死にしたため若くして七代目当主の座に就いた英林孝景を後見しました。そのとき、教景は七十歳の高齢でしたから、二十三歳の英林孝景のパートナーとして久長をに目をつけて自分の娘を妻に持たせたと考えると、ストーリーの筋が通りやすくなります。

 さて。

 前回の講座で予告した「織田久長と久長の孫信秀との間に生じた隙間風」にいよいよ言及することになるわけですが、高祖父と孫の関係でありながら隙間風が吹く原因は何であったかと申しますと、京の室町幕府に対するスタンスの違いです。幕府と対立する朝倉氏と共同歩調を執る久長に対して子の敏定が父親とは正反対に接近を図り、嫡流の岩倉織田氏を宗家の座から引きずり下ろした過去の経緯があることから、信秀としては越前にいて疎遠だった高祖父よりも功績の大きかった祖父の方針を踏襲したものと思われます。

 こうしたなりゆきから考えますと、永正元年になって唐突ともいえる感じで久長が楽田城を築いた理由はまことに理解に苦しむところで、ましてや、天守閣に相当する本丸御殿が築かれていたということになりますと、もはや、だれか別人が久長のために費用を負担したということまで視野を置かなければならなくなって参ります。と、なりますと、築城の費用はどこのだれが、どのようにして捻出したのでしょうか。

 ところで。

 唐突ながら、ここで、松平氏、三河一向宗門徒武士団総代家石川氏、水野氏、織田氏を一つに結びつける考証上のキーマンとして梶川宗玄・高秀父子を登場させると、どういうことになるでしょうか。

 時系列定点は永正元年です。梶川高秀は楽田の出身といわれますし、当時はまだ存在しませんから、父親の平九郎宗玄が織田久長の側近となって楽田城にいたことが考えられます。ところが、宗玄の生没年がわかっておりません。大脇城は刈谷城の支城として理解されますが、刈谷城が築かれたのは大脇城よりもずっと後で、水野信元の時代ですから、いかがなものでしょうか。永正元年といいますと、信元の父親忠政でさえ十二歳でした。水野氏が大脇城の城主梶川五左衛門某が仕えた水野氏の当主は忠政の父親清忠だったとするのが妥当ですから、水野氏が何かしら目的があって楽田城に梶川氏を刈ろうとして派遣した期間があったと考えてよさそうです。宗玄も。長男の高秀も、共に生年不詳ですが、次男の一秀はわかっています。一秀は天文七(一五三八)年の生まれで、桶狭間合戦当時、中島砦を兄の高秀を助けて守っていますから、宗玄が楽田城にいたときに生まれたものと考えられます。宗玄の三男五左衛門秀盛(別名文勝)もまた生没年不明ですが、大脇城主とされ、水野氏が榎本了圓の築いた成岩城を攻め落としたとき、同城の城主になったと記録されておりますから、宗玄は秀盛が生まれたときは大脇城に戻っていたものと思われます。

 しからば、宗玄は楽田城にきたとき、何歳ぐらいだったのでしょうか。大脇城に戻った秀盛が五左衛門を名乗っていることから考えて、仮に歴代大脇城主が五左衛門を名乗ったと致しますと、「秀盛が五左衛門を名乗っている」ことから宗玄の父親、祖父が「五左衛門」と名乗ったことと混同した可能性が考えられます。つまり、宗玄も楽田城で生まれたと考えないと時系列的に辻褄が合わないのです。一秀の生年、高秀の推定生年から考えますと、兄弟の父親宗玄さえもまた、久長が楽田城を築いた永正元年にはまだ生まれていない可能性が大で、水野氏に仕えて大脇城にいたのは宗玄の父親か祖父ということになりそうです。すなわち、宗玄が平九郎を称していることから本人も楽田城で生まれた可能性があり、必然的に水野氏に仕えて大脇城にいたのは宗玄の父親か祖父という推測に信憑性が生じて参ります。

 つまるところ、水野忠政の父親清忠に仕え、大脇城の城主でもあった宗玄の父親ないしは祖父の五左衛門某を七十近い織田久長の付け家老として移籍させられる力を持ったのはだれか、それを考えればよいわけです。と、なりますと、高秀・一秀兄弟が信長に仕えたことに鑑みて、朝倉宗滴と姻戚でもあり、同じ血を祖父敏定から受け継ぐ信長と切っても切れない関係を持つ人物をヒントにして考えればよいことになります。ここで、第二百九十五回講座で得た結論「清兼が水野忠政の娘を継室に迎え、妹の於大を主君広忠に正室として押しつけたことで、三河一向宗門徒武士団にも、歴代総代家石川氏にも、水野氏が深くからんでくることになった」を当て嵌めると、どういうことになるでしょうか。

 連立方程式ではありませんが、もう一つ、以下のカテゴリーをヒントに用います。前回までの考証で、織田敏定を祖として敏信・良信・信定・信秀・信行とつづく主流派に対して反主流派ともいうべき「織田弾正忠家で浮き上がった存在の信長とその高祖父久長」という織田氏の色分けが浮き彫りになったわけですから、当然の帰結として、形勢が圧倒的に不利だった反主流派の久長と信長の背中を清兼がどうやって押し、大勢逆転にまで持ち込んだのか、その道筋を解き明かす必要に迫られました。次回はそれを切り口にしてストーリーを展開させることに致します。

 

                     《毎週月曜日午前零時に更新します》