重要事項書き抜き戦国史(133) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(299)

重要事項書き抜き戦国史《133》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《23》

プロローグ 戦国史Q&A《その23》

どうして賢弟の信行はバツて愚兄の信長がマルだったのか

(その八)

 

 今川に人質として運ばれる途中の竹千代が拉致されてきて尾張国にいる。尾張国守護代の織田信秀には青天の霹靂でした。しかし、わかりきった帰結ですから、松平竹千代拉致事件の首謀者石川清兼は、なぜ、信秀が竹千代を受け容れるように根まわしをしなかったのでしょうか。風が吹けば桶屋が儲かる式に検証し到達した答えが、「信秀に根まわしする必要性を認めなかった」ということでした。

 ここであり得ることとして提起したいのが、拉致事件がもたらしたのが永正のときは不発におわった「三河一向宗門徒武士団が対今川作戦として用意した三つの作戦計画のうちの一つ、田楽狭間の一本道作戦」の復活です。一つの見方として考えられるのが、これが拉致事件の動機と考えられなくもないということです。

 それがどういうことかわかりやすく説明するためには、ここでまた風が吹けば桶屋が儲かる式に「織田信秀がいわれているような傑物だったかどうか」明らかにしなければなりません。信秀の本質をよく表した出来事に美濃攻略の惨敗とそれにつづく「帰蝶と信長の婚姻破棄事件」があります。以上の出来事で明らかになったのが信秀の計画性に欠ける行き当たりばったりの性質です。今川義元の軍師雪斎にその点を見透かされて起きるのが、実は信秀の庶子信広と竹千代との人質交換なのです。私たちが信秀が傑物であることを裏打ちする資質はどこにも見受けられないとする根拠はそこにあります。

 さて。

 帰蝶と信長の婚約破棄事件は、婚姻後の二人の仲が不明のままになった原因でもありますから、少し具体的に述べる必要がありそうです。

 天文十三(一五四四)年のことでした。九月二十二日、美濃守護の座を追われた土岐頼純は朝倉貞景、織田信秀の支援を取りつけると、朝倉宗滴を総大将に押し立てて美濃入りを企てます。二手に分かれた頼純軍のうち、宗滴は道三方を破りますが、稲葉山城の斉藤道三を直接攻めた信秀は大惨敗を喫して、ほうほうの体で尾張に帰還しました。その後、道三と信秀の間で和睦が成立し、道三の娘帰蝶を吉法師(信長)に輿入れさせる婚約が交わされます。

 時を同じくして、岡崎城に返り咲いた松平広忠が、家康の生母於大(水野忠政の娘、信元の妹)の方を離縁しております。当然の対抗措置として、水野信元が松平家を見限って楽田城の織田氏の側につくことになりました。

 二年後の天文十五(一五四六)年の秋、斎藤道三が時の美濃守護土岐頼芸の退任を条件にして朝倉孝景・土岐頼純と和睦、土岐頼純は道三の娘を室に迎えます。道三の娘帰蝶はこのとき十四歳だったとみられております。

 天文十三年から足掛け三年の間に何があったのでしょうか。

 天文十三年のいくさに関して、道三の認識は「稲葉山城に攻め寄せた信秀が主力で、自軍に勝利した朝倉宗滴は美濃の勢力を分散させるための囮」と勘違いした節があります。和睦の相手が信秀で、娘の帰蝶が信長に輿入れすることにしたのが、以上の推測の根拠です。信長のもとに輿入れすることになった道三の娘が帰蝶だったという確証は得られておりませんが、当座、そういうことにしておきます。信秀にしてみれば、完敗した自分に道三のほうから和睦を持ちかけてきて、娘の帰蝶を信長に輿入れさせるというのですから、決して悪い話ではありません。内心、戸惑いながら受諾し、急ぎ、吉法師を名乗る信長を元服させるべく家老林新五郎秀貞、平手中務丞政秀に後見させて帰蝶を迎える条件をととのえます。

 ところが、道三は和睦を交渉する相手を間違えていたことに気づきます。この時点で帰蝶と信長の婚約は宙に浮いたものとなり、天文十五年の秋、斎藤道三はあらためて朝倉孝景・土岐頼純と交渉し直し、美濃守護土岐頼芸を退任させる条件を呑み、、和睦して土岐頼純に帰蝶を輿入れさせてしまいました。

 そうした事態にもかかわらず、信秀が道三のダブルブッキングに非を唱えた形跡がないのです。家中における信長の評価はがた落ちになったと見て間違いないなりゆきです。信長の屈辱が信秀に対する反発となったのは当然の帰結といえます。対応して信秀の寵愛は賢弟の信行に移り、信長付きの家老林秀貞の気持ちも信行に傾いたものと思われます。林佐渡守秀貞が信長を見捨てて弟の信行を擁立するのは天文二十二年ですが、気持ちはすでに信長から離れていたとみて間違いないでしょう。

 こうしたさなかに松平竹千代拉致事件が起きて、幼い家康が尾張国に連れてこられたのです。尾張国と漠然とした表現を用いたのにはわけがあります。のちに切っても切れない仲になる信長と家康が、このとき、顔を合わせた記録がないというのですから、記録類の紛失というような偶然が原因ではなく、意図して真相が伏せられたと判断するのが極めて自然です。

 しからば、なぜ、真相が語られなかったのでしょうか。

 原因も、理由も、一つではないくらいありますが、ここで「当たらずといえども遠からず」という統計学的近似値事実という概念を用いて、大胆な推論をまたしても持ち出すことに致します。

 これまで、竹千代を拉致した実行犯は老津浜から熱田湊に向かったようにみられて参りましたが、私たちは津島湊に漕ぎつけたと判断を下しました。首謀者の石川清兼が実効支配する生駒屋敷と楽田城へのアフロ―チとして最適と考えるからです。信秀の目につきにくく、竹千代の安全を確保する場所は、生駒屋敷か楽田城のどちらかでしたから「あたらずといえども遠からず」の統計学的近似値事実にぴったりです。

 楽田城にこのとき織田久長が存命であったかは定かではありませんが、梶川高秀・一秀兄弟が何らかの役割を担っていたのは明らかですから、当然、清兼の力の及ぶ範囲とみて間違いありません。

 冒頭、私たちは清兼が「信秀に根まわしする必要性を認めなかった」ことを提起したわけですが、それは彼がどこにも何の根まわしをしなかったという意味ではありません。相手が信秀ではなかったというだけことです。

 しからば、清兼が根まわしした相手はだれで、どういったことを根まわししたのでしょうか。

 

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