荒船風穴の冷風に吹かれて | 降っても晴れても

降っても晴れても

山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

下仁田ジオパークと文化財と町並みを訪ね歩いていたら、雨が降ってきました。

満を持して荒船風穴へ向かいます。今年の二月初めにさいたま新都心から『上武絹の道』をたどって富岡製糸場までたどり着いた。さらに荒船風穴を訪ねれば完璧だったが、すでに季節は冬。荒船風穴も冬眠中で、春を待って再度行こう!ということになった。

そして今日の日が来たのです。2024年7月10日の記録

 

絹遺産=荒船風穴=世界文化遺産

 

今日は平日なので、平日限定ルートでアクセスできる。国道254の市野萱大橋手前で土日祝日ルートと別れて、県道44で屋敷地区のP2駐車場まで入れる。ここから歩いて300mの距離だ。

ちなみに土日祝日は国道を直進して、内山トンネル手前から神津牧場経由という大回りになる。P1に着いて徒歩800mなので、その区間はシャトルバスもある。

さて、P2付近の屋敷集落の風景を眺めて出発。

坂道の途中に庚申塔などの石仏があった。変わった雰囲気の青面金剛だ。

 

荒船風穴入口の受付に到着です。係員が二人いて、割引券を見せて入場した。ここはそもそも国指定史跡なので、正式名称はこういうことです。風穴の仕組みや歴史については、ぼちぼちとお話していきたいと思います。

 

ガイドの方がまずレクチャーをしてくれる。話を聞きながら、屋敷集落を見下ろした。話が一段落して、では後はご自由にどうぞということになる。

 

荒船風穴の効能については、過去に巡ってきた高山社や競進社で頭に仕込んできた。蚕種を低温貯蔵することによって孵化の安定化と時期調整を可能にし、年間の養蚕回数を増やすことに成功した。これによって繭の飛躍的増産が実現したのである。

蚕種の低温貯蔵のためには荒船風穴の存在が不可欠だった。風穴を建設したのは下仁田町西野牧で養蚕業を営んでいた春秋社の庭屋静太郎。明治38年のこと。

周辺は地すべり地帯で、大量の崩落岩が堆積している。その岩の隙間が冷風を生み出すという仕組みだ。

 

では一旦、風景に目を移します。手前(下)から、3号・2号・1号風穴と並んでいる。想像していたよりも小規模な印象を受けた。この場所自体が麓の町よりは過ごしやすい気候である。

 

これが3号、創業当時はこの石積の上に建屋があった。

3号から上方を見る。

 

ここは作業小屋跡、何も残っていない。ここから風穴群の横へ下っていきます。本日貸し切りです。

 

風穴横の谷筋を登っていく。どこからともなく冷風がただよってきた。

冷風体感ベンチがありました。ずっと座っていたい。

 

風穴内にも入れるのだろうと漠然と思っていたけれど、立ち入りはできません。

上から見下ろす。手前の石積はだいぶ崩れてしまったのか。

 

最上部の1号風穴の温度測定によると、現在地では13.0℃・風穴内は2.2℃。

この下の2号風穴では15.9℃の3.5℃だった。大正4年の風穴内温度は7月で1.4℃に管理されていたということだ。

 

これが種紙というもので、カイコガがここに卵を大量に産み付ける。これを風穴で貯蔵するわけである。貯蔵量は110万枚に及んだ。

 

風景としてはあまり変化はないが、いろんな角度で眺めてみる。

 

ゆっくりと30分ほど見学して、駐車場へ戻ってきた。集落の風景も今はひっそりしている。帰りは神津牧場を周って行くことにした。風穴の受付で神津牧場のソフトクリーム無料券をもらったが、今日は休みだった。

 

下仁田町歴史館は前回も見学した。しかし今日はこんな特別展示をやっているそうなので、再訪していく。風穴のチケットを見せたら無料にしてくれた。

 

これが風穴の石積上部を覆っていた建屋です。奥には作業小屋もある。

 

こちらが内部です。作業する人は寒いから、相当着込んでいたとのこと。

こうやって繭が増産されて、上信電鉄で運ばれて富岡製糸場に入ったり末は横浜港から海外へ出たりもした。本庄商業銀行の赤煉瓦倉庫に担保として入ったものもあったろう。

 

これが荒船風穴蚕種貯蔵所五十分ノ一図。細かくて判りづらいですが。

 

立体模型のほうが分かり易い。

鳥瞰図も合わせて。

 

以下はおまけですが。下仁田社の商標の数々。下仁田社は今朝馬山集落で見た養蚕水車用水路の下手にも事業所があったらしい。

これはその他各社の商標。見ているだけでも面白い。

 

下仁田の西光寺の衣笠様。宝冠には蚕蛾模様がある。

 

養蚕・絹遺産をめぐる旅を、たくさん楽しませていただきました。

シャトルバス終点の自販機で買った缶バッジ。

荒船風穴、でした。